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【3分でマスター!】隋を分かりやすく!

みなさんこんにちは。ケイトです。

 

今回は、隋の解説をしていきます!

隋の成立

約1世紀半続いた南北朝の対立時代は、北周の軍人出身で外戚の楊堅により終わりを迎えました。楊堅は581年に文帝として即位し隋を建国、都を大興城(長安)に定めました。

 

そして、589年に南朝の陳を倒して南北に分かれていた中国を統一しました。

 

隋は、均田制・租庸調制・府兵制を採用し財政及び軍事の安定を図り中央集権体制を作り上げました。

均田制と屯田制の違いって?

均田制は、年齢や性別に応じて農民に国が所有する土地を平等に分け与えた、人民管理と税収入の安定化を目指した制度です。

 

租庸調制は、均田制の下で給田された人々に税を課す制度です。租は穀物で女子にも課されました。

 

調と庸は成年男子のみに課され、調は絹・綿・布などを、庸は中央政府での労役の代わりに絹と麻布を修めるものでした。

 

これに加えて、地方の役所が課す力役である雑徭も課されて農民の負担となりました。

 

府兵制は西魏の時代に始まった徴兵制度のことで、農民の中から兵役につくものが選ばれ、一定期間、都の警護や辺境の守備にあたらされました。

 

隋の時代には、九品中正が廃止され、代わりに科挙が創始されました。隋の文帝が587年に始めた学科試験による管理登用制度でした。

 

試験内容は儒学で、広く人材を集め、中央集権化を図ることを目的としていました。科挙制度は清朝末期の1905年に廃止されるまで、多くの中国の王朝で採用されていくことになります。

 

滅んだのは煬帝のせい?隋の滅亡の理由とは?!

中国歴史上には暴君と称される皇帝が何人かいるのですが、その中でも有名なのが隋の2代目皇帝の煬帝です。

 

煬帝は江南と華北とを結びつける大運河の建設を進めました。

 

これは中国史上初めての南北の交通幹線であり、国の経済的統一の基盤として評価されます。

 

しかし、これに加えて副都の洛陽の建設も行うなどしました。

 

さらに、周辺諸国へは度重なる遠征を行い、特に朝鮮半島の高句麗に対しての遠征は3回にも及びました。

 

 

大土木事業の労働力も、遠征における兵士も農民から徴発されたので、これらの煬帝の政策は農民の大きな負担となり、農民の困窮は深刻化しました。

 

国内でも煬帝に反抗する動きが起こり、2度目の高句麗遠征の時の反乱を皮切りに各地で兵乱が相次ぐようになりました。

 

都の長安と副都の洛陽も反乱軍の侵攻を受け、煬帝は南方の揚州に逃れました。

 

反乱軍の中で有力であった軍閥の李淵とその息子李世民の軍は長安を占領しました。長安陥落を受けて煬帝は服毒自殺を試みましたがそれを許さない部下に絞殺されました。

 

こうして隋は滅亡しました。

 

長安を占領した李淵は皇帝に即位し唐を建国しました。李淵の子の李世民は第二代皇帝となります。わずか40年ほどで滅亡した隋とは対照的に唐は安定し、300年近くの間存続しました。

【3分】唐を分かりやすく!滅亡の理由は?

 

まとめ

いかがでしたか?隋の滅亡の理由を中心に隋の解説をしました。

 

ぜひ理解に役立てて下さいね!暗記ノウハウもゲットして、ぜひ暗記もやってみて下さい!楽々覚えられますよ!

 

 

それではまた会いましょう!

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