どうも!ケイトです。
天津条約と北京条約、区別ついていますか?勉強しているうちにだんだん分からなくなるんですよね。ということで今回は天津条約と北京条約の違いを解説していきます。
Contents
天津条約と北京条約の違い
天津条約➢アロー戦争の1回目の講和条約
北京条約➢アロー戦争の2回目の講和条約
どちらもアロー戦争の講和なのです。一つずつ見ていきましょう!
天津条約
アロー戦争
アロー戦争は、1856年10月に起こったアロー号事件が発端として起こった戦争です。広州の港にいたアロー号に対して、清の政府が海賊の容疑で捜査をし、船員を逮捕しました。このアロー号というのは、アヘンの密輸船でした。
そこで、イギリスは、「アロー号はイギリスの船だ!国旗を引きずり下ろしやがって!中国がイギリスを侮辱した!」と抗議しました。
実際にはイギリス船でもなく、引きずり下ろされたかどうかも、微妙なところでした。
イギリスはアヘン戦争後、自分らに有利な条約を中国に結ばせたにも関わらず、貿易の収益はそうでもありませんでした。
なので、もう一回戦争をふっかけて、もっと有利な条約を結ぼうとしていたわけでございました。そして、戦争をふっかけるための言いがかりが、今回のアロー号事件です。
いやあ、イギリス自己中...
天津条約
イギリスは、アロー号事件を口実にフランスと共に、中国を攻撃します。最新鋭の武器を持ち、ヨーロッパの中でも、大きな軍を持つ2国に清が勝てるはずもなく、広州を占領されました。
広州の北には、天津が。イギリス、フランスは、そこにいた清政府に迫りました。中国に超不利な条約を結べと。清は渋々承諾します。これが天津条約です。
ちなみに、甲申政変の時の日本と清の条約も天津条約です。しっかり区別しましょう。
北京条約
中国反発、英仏逆ギレ
天津条約を結ぶことを承諾したものの、政府には批准に消極的な意見がありました。「やっぱりこんなのおかしい」と思い直した人々は、イギリス、フランスの使節団が北京に入るのを拒否します。
逆ギレしたイギリスは、清に圧力をかけます。「なめとんのか?われえ!」みたいな感じで。
「偉そうにすんじゃねえ」と反発した清の人々は、思い切った行動に出ました。
なんと、英仏側に発砲したのです。これを機に、英仏軍が再出兵し、戦闘が開始されます。
イギリス、フランスは、清との戦いの傍らで、円明園の略奪、破壊を行いました。これは、ひどいっすね。
結局、英仏の武力には敵わず、天津条約に加えて、もっと不利な北京条約を結ばされました。
内容としては、外国大使の北京在住、天津他11港の解放、外国人の中国旅行の自由、キリスト教布教の自由、イギリスに九龍半島を割譲することなどでした。さらには、アヘン貿易も公認させられました。
言いがかりで戦争ふっかけられた挙げ句、逆ギレされて国をめちゃくちゃにされる、、、清が不憫過ぎますね。
まとめ
いかがでしたか?天津条約と北京条約の違いの解説でした。しっかり区別して、勉強を進めていきましょう!
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それでは!
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