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【3分】殷と周の違いとは?易姓革命についても解説!

みなさんこんにちは。ケイトです。

今回は、殷、周の解説をしていきますよ!

 

殷と周の違い

 

殷→殷墟で神権政治

 

周→鎬京、洛陽で封建制

 

Simpleですね!まずは易姓革命とは何かを学んでから、詳しく殷、周についてやっていきます!

 

易姓革命とは?

易姓革命とは、簡単に言うと、中国で王朝が交替することを言います。

 

儒教の思想が基です。徳のない天子を天が見限った時に、他の徳のある人物に天命が下り、取って代わると考えられていました。

 

本当は武力でリーダーの座を奪い、王朝が変わっていくことを良いこととはしていませんでしたから、「易姓革命」という考え方は中国王朝交代を正当化するための根拠でした。

 

文字を見てみると、

 

「易」と「姓」は王朝の支配者の「姓」がかわる(「易る」)こと、

 

「革命」は天の神の意志(「命」)がかわる(「る」)ことを意味していますね。

 

文字通り、易姓革命は「統治者の姓が変わり、天命が改まること」なのです。

 

易姓革命は2種類に分けることができて、徳を失った君主がそれを自覚し、より徳のある君主へと帝位を譲るという平和的な交替を「禅譲」、武力によるものを「放伐」と呼んでいます。

 

大体起こるのは放伐の法です。

 

ちょっと混乱してきたら、王朝が変わること!と覚えましょう!

 

殷とは?

殷のポイント

殷墟

甲骨文字

青銅器

神権政治

詳しくいきましょう。

殷って?

は、現在存在が明らかにされている中国最古の王朝です。中学校でも習いますね。(記憶が定かでないですが)

 

遺跡としては、巨大な殷王の地下墓である殷墟が発見されています。

 

中国では、伝説の王朝として「」王朝があります。殷以前にもたくさん存在してそう、、、、と私は思っています。

 

 

その夏を倒し建てられた王朝がです。(放伐ですね。)湯王が建てました。

 

 

殷墟(いんきょ)という場所の地に都を移し、周に倒されるまで約5世紀に渡って続きました。5世紀続くって相当すごい。

 

殷は、占いによって「神意」を知り、農事、軍事、祭祀、王位継承を行うという、典型的な「神権政治」を展開していました。

 

甲骨文字が使われ、占いにも用いられました。

 

また、青銅器技術も発展しており、獣面や複雑な文様を描いた大量の青銅器が殷の遺跡からは見つかっています。

 

邑って?

しかし殷って実は、「邑(ゆう)」という集団があつまった団体でした。

 

「邑」は簡単に言えば、都市国家みたいなものです。血のつながりが深い人同士で集団を結成していました。

 

つまり、殷は厳密に言えば中国の統一王朝ではないと言えるのです。

 

例えば、、、、、ちょっと例が思いつきにくいですが、似てるのが神聖ローマ帝国ですかね。この国も領邦という都市が集まって形成されていた国です。

 

三十年戦争後は領邦ごとに独立して、プロイセンやらオーストリアが力を持ちました。

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話を戻しましょう。

ただ、殷はとても有名な邑でしたし、周りの大量の邑とくっついて連合体を結成していましたから、大邑と言われました。

 

 

このような邑の連合体からなる殷王朝の国家形態を邑制国家といいます。

 

 

周とは?

周のポイント

鎬京

殷を倒す

封建

宗法

周とは?

周は黄河の渭水(いすい)という流域にあったの一つで、はじめは殷の支配を受けていました。

 

しかし、周の武王が殷の紂王をぶったおし、華北一帯を支配しました。つまり武力で王朝が交替したのです。

 

つまり、「易姓革命」、そのなかでも「放伐」ですね。そんでもって最初の首都は渭水流域に築かれた鎬京(こうけい)に置かれました。

 

周は、中国の殷に続く王朝となるのです。

 

後に都を東方の洛陽(らくよう)に移します。鎬京にいた時代をを西周、洛陽に都があったを東周といいます。

 

東周は周王の支配力は弱まり、その後の春秋戦国の世へと進んでいきます。

 

 

周では、封建制と呼ばれる政治制度が存在しました。

 

後の秦の始皇帝はこの封建制を改め直接統治の形に変えていきますが、前漢時代には一部でこの封建制が復活していくことになります。

諸子百家とは?!分かりやすく解説!

封建制は、周王が血の繋がった人やお金持ちを中心に諸侯として、土地と人民の支配権を与え、統治したシステムのことをいいます。

 

 

諸侯に与えられた地域を「国」といい、諸侯に土地と人民を与えて黙らせて国をつくっていくことが「封侯建国」であり、その略が「封建」です。

封建制、郡国制、郡県制の違いって?

周の時代は「地方分権」と覚えておきましょう。

 

この時代に中心となった思想は「徳治主義」で、人間は元来良い生き物なんだという「性善説」に基づいていました。

 

諸侯に裏切られる心配はなかったんです。

 

諸侯は国を支配し、国内の土地をその一族や自分の臣下に分け与たえました。

 

いわば、鎌倉時代の武士同士の奉公とご恩のシステムとは若干違って、王と諸侯の関係であり、上の立場の人が下の立場の人をめちゃくちゃ可愛がるようなシステムでした。

この時代では、「血縁関係」が大事にされました。実際に血が繋がっていなくても、諸侯の家臣であれば、身内であると認められていました。

 

このような血縁的な宗族によって結びついている社会を氏族社会といいます。

 

上下関係はあるものの、上の立場の人が下の立場の人を可愛がるのは、このような擬態的な「血縁関係」があったからなんです。

 

 

また、その親族(宗族)の秩序を維持するためのルールのことを宗法といい、とても重視されていました。

 

殷と周の違い

 

殷→殷墟で神権政治

 

周→鎬京、洛陽で封建制

 

 

まとめ

いかがでしたか?

易姓革命、殷、周の解説でした!

細かい部分までしっかり理解して、次に進んで下さいね!

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それではまた会いましょう!

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