みなさんこんにちは。ケイトです。
今回はヴァルナ制とカースト制度の違い、アーリヤ人の侵入、バラモン教の解説をしていきます。
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ヴァルナ制とカースト制度の違いとは?
ヴァルナ制とカースト制度はどちらも、
人を身分ごとに分けて厳格に差別する制度という点で似ていて混同されやすいのですが、
実は別物です。
ヴァルナ制
ヴァルナ制は、紀元前1500年頃からインドに侵入を開始したアーリヤ人がインドの原住民と交わる過程で生まれた、身分上下観念です。
上から、バラモン(司祭)、クシャトリヤ(武士)、ヴァイシャ(農民・牧畜民・商人)、シュードラ(隷属民)の4階級に人々を分けました。
バラモンとクシャトリヤは支配者、ヴァイシャは庶民、以上が肌の白いアーリヤ人が属する上位3ヴァルナで、シュードラはかれらに自由を奪われ奴隷として奉仕しました。
ちなみにヴァルナは「色」という意味の言葉で、ヴァルナ制は肌の白いアーリヤ人と肌の黒い非アーリヤ人とを区別するためのものだったんです。
人種が一つの区分基準になっているのですね
カースト制
ヴァルナとはまた別に職業や特定の信仰で結びついたり、他の集団との結婚や食事を制限することで結合を図ったりしました。
似たもの同士で集まったわけですね。
この集団をジャーティ集団と言います。
ジャーティは、やがてヴァルナ制と結びつき融合して、上下関係を主張するようになります。ヴァルナ制は生まれた身分によって上下関係があるという考え方ですからね。
ジャーティとヴァルナ制が結びついた結果、長い時間をかけてインド独自の身分制度を形成していきました。
そしてこの身分制度を、カースト制度と言うのです。カーストは、ジャーティをポルトガル語で言い換えたものです。
カースト制度は、ヴァルナ制が長い時間をかけて様々なジャーティの考えと結合して形成されたものなのです。
つまりヴァルナ制の進化形がカースト制なわけですね。
アーリヤ人の侵入
これまでの説明で何度も登場してきたアーリヤ人は、紀元前1500年頃、中央アジアからインド北西部のカイバル峠を越えてインドに侵入してきました。
彼らはインド=ヨーロッパ語系の牧畜民で、当初は富や地位の差もない部族的な社会を形成していました。
紀元前1000年頃にはより肥沃なガンジス川上流域へ移動、また、青銅器の代わりに鉄器が用いられて農耕や森林の開墾が効率化、それまでの大麦や小麦に代わり、稲の栽培が中心にになりました。
彼らは移動した土地で先住民と交わり、農耕技術を学んで定住農耕社会を形成しインドに定着しました。
ヴァルナ制が生まれたのはこの頃です。アーリヤ人の間では、インド侵入当初、雷や火などを信仰する原始的な信仰が盛んで様々な祭式が執り行われていました。
それらの宗教的知識をまとめたのがヴェーダです。ヴェーダは複数の文献の総称であり、そのうち賛歌集『リグ・ヴェーダ』が最も有名です。
各種ヴェーダは紀元前600年頃までの時代に編まれました。
ヴェーダは、現在インドで最も信者の多いヒンドゥー教とバラモン教(この後説明します)の両宗教の聖典です。
ちなみに、ヴェーダを学ぶことができたのは、ヴァルナ制の上位三身分のバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャのみでした。
彼らは少年期にヴェーダを学びました。ヴェーダを学習することでやがて生まれ変わることができると考えられていました。
一方シュードラは、ヴェーダを学ぶことが許されていないとされ、故に生まれ変わることもできないとされたのです。
バラモン教とは?
先ほど出てきたバラモン教について、より詳しく説明します。ヴァルナ制の最高位であるバラモンは、複雑な祭祀を正確に執り行わなければ神々から恩恵を受けることはできないと考え、自らを最高位としました。
彼らが司る宗教がバラモン教です。バラモン教は自然崇拝から起こった多神教で、聖典はヴェーダです。
ヴァルナ制やジャーティ集団、それらから発展したカースト制度と強く結びついていました。
バラモンの権威が強大で後に改革運動が起こったり、新興宗教が台頭したりする中で変化を余儀なくされますが、その根本の考え方は根強く残り、後のヒンドゥー教の成立につながります。
まとめ
いかがでしたか?
ヴァルナ制とカースト制度の違い、アーリヤ人の侵入、バラモン教の解説をしました!
特に制度や宗教はしっかり復習して、定着させてくださいね。
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