どうも!ケイトです。
滅満興漢と扶清滅洋はしっかり区別ついていますか?この二つはしっかり意味を理解すると二度と忘れなくなります。それでは早速意味を理解していきましょう。
Contents
滅満興漢と扶清滅洋の違い
滅満興漢→太平天国の乱の際に、スローガンとして掲げられたものです。「満州人の政権である清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させよう」という意味です。
扶清滅洋→義和団事件の際のスローガンで、「清朝を助けて西洋を討ち滅ぼす」という意味です。
滅満興漢
滅満興漢は太平天国の乱の際に、スローガンとして掲げられたものです。「満州人の政権である清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させよう」という意味です。
清朝は満州人が漢人を支配している国家でしたね。
太平天国の乱
太平天国の乱は農民反乱です。
アヘン戦争後、なにもかもイギリスに奪われ、重税による貧困や清朝統治への不安を隠せなかった民衆は、なんとかして生活を守ろうと団結することにしました。
華北の農民集団である捻軍、西北や雲南のイスラーム教徒、貴州のミャオ族、そして太平天国。
彼らは、各地で反乱を起こし、徐々に勢力を強めていきました。
太平天国は中でも最大の結社で、指導者は洪秀全という青年でした。
彼は広東でキリストの伝道に接していましたが、あるときから「僕はキリストの弟だ!」と言いだし拝上帝会(はいじょうていかい)という結社をつくりました。太平天国の前身ともいえます。
儒教を攻撃、偶像を破壊するなど彼らの行為はなかなか過激だったので、弾圧をうけます。
しかし、彼らが広西で挙兵し、太平天国をたてると多くの貧困農民が清から逃れるように賛同し、彼らの活動は急速に広まっていきました。
その後、南京を首都と設定し、太平天国は「満州人の政権である清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させよう」という意味のスローガン、滅満興漢を掲げました。
太平天国の乱の結果
「乱」ということなので、太平天国が敗北します。その様子を見ていきましょう。
太平天国は、アヘンの吸引などの悪習を撤廃し、天朝田畝制度(土地を公平に分ける)など男女平等政策を打ち出し、男も女も戦いや労働に参加させました。
しかし、彼らは次第に仲間割れを始めていきます。こういう過激なグループを良く思っていなかった漢人の官僚は仲間を集めて義勇軍をつくります。ここでの義勇軍を郷勇っていいます。
有名なグループが2つあるので覚えておきましょう。
曾国藩(そうこくはん)の湘軍(しょう)、李鴻章(りこうしょう)の淮軍(わいぐん)です。
そうしよう!利口なY君!
曾国藩(そう)
湘軍(しょう)
李鴻章(りこう)
淮軍(わいくん)
彼らが太平天国を攻撃し、またせっかく有利な条約を結んだのに倒れられては困るイギリスやフランスは、清朝に協力するようになります。
外国人の軍を常勝軍といいます。常に勝つ軍って、、、自信たっぷりですね。
常勝軍はウォードやゴードンという人物が率いました。
常勝軍や郷勇の攻撃によって太平天国は滅んでいきます。
扶清滅洋
扶清滅洋は、義和団事件の際のスローガンで、「清朝を助けて西洋を討ち滅ぼす」という意味です。
扶清滅洋
義和団というのは、山東の農村の自警団がもとになって生まれた集団です。このころは、日清戦争後で、列強による分割が進んできた時代だったので、反キリスト的な考えが広まっていました。
彼らもそのような考えを持っていて、行動に移していきます。
彼らの行動はだんだん過激になっていき、「扶清滅洋」を唱え、教会を破壊したり、宣教師や信徒を攻撃しました。
義和団事件
義和団は勢力を増し、首都である北京にも入り、を活動を続けました。
清朝の、「清の政権は守りたいけれど、外国はどっかいって欲しい派」の人達は、この義和団の運動を利用して、外国を追い出そうと考えます。
清は思い切ったことに各国に宣戦を布告します。
それに対して外国は、在留外国人の保護を口実に8カ国が連合して清に攻め入ります。
8カ国の最強連合軍に、弱っていた清が勝てるはずもなく、北京議定書に調印し、賠償金の支払い、外国軍の駐屯を認めさせられました。
この一連の出来事を義和団事件といいます。
まとめ
いかがでしたか?
滅満興漢と扶清滅洋、太平天国と義和団事件の解説でした。世界史の勉強ではしっかり理解することが点数につながっていきますので、ばっちり復習してマスターしておいて下さい!
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