どうも!ケイトです。
受験に限らず、言葉の定義を自らの言葉で説明できることって大事ですよね。
今回扱うのは、「滅満興漢」と「扶清滅洋」
しっかり区別ついていますか?
理解する際には、その周りの世界史のストーリーを覚えておくと忘れづらくなります。一緒に覚えていきましょう!
滅満興漢と扶清滅洋の違い
まずは概要の解説から。
滅満興漢:太平天国の乱の際に、スローガンとして掲げられたもの。「満州人の政権である清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させよう」という意味。
扶清滅洋:義和団事件の際のスローガンとして掲げられたもの。「清朝を助けて西洋を討ち滅ぼす」という意味。
それは詳しくみていきましょう。
滅満興漢
「満州人の政権である清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させよう」の意味を持つ「滅満興漢」。(清朝は満州人が漢人を支配している国家)
この言葉の理解のために、以下を押さえておきましょう
・太平天国の乱
太平天国の乱
19世紀半ばの中国(清)。アヘン戦争に敗れ、莫大な賠償金と重税に苦しむ民衆の不満が爆発寸前だったこの時代に、一人の青年が見た「不思議な夢」から、史上最大級の農民反乱は始まりました。
それが、約14年間にわたって清王朝を滅亡の淵まで追い詰めた「太平天国(たいへいてんごく)の乱」です。
物語の主人公は、洪秀全(こうしゅうぜん)という名の青年です。 彼は官僚になるための超難関試験「科挙(かきょ)」に何度も挑んでは落ち続け、30歳を前にしてついにノイローゼになってしまいます。
高熱にうなされた彼は、ある不思議な夢を見ました。 「金髪で黒いローブを着た老人から剣を渡され、悪魔を退治しろと命じられる」というものです。
数年後、彼は偶然手にしたキリスト教のパンフレットを読んで衝撃を受けます。
「あの夢の老人は絶対神エホバだ!そして、キリスト教の教えに照らし合わせると、自分はイエス・キリストの弟に違いない!」
思い込みと使命感に燃えた洪秀全は、独自のキリスト教系新宗教「拝上帝会(はいじょうていかい)」を創設します。
当時の中国は、一部の特権階級が富を独占し、農民は飢えに苦しんでいました。 そこに洪秀全は、非常に魅力的なスローガンを掲げます。
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滅満興漢(めつまんこうかん): 異民族である満州族(清王朝)を倒し、漢民族の国を復興する!
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土地の平等分配: 地主から土地を奪い、みんなで平等に分ける!
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男女平等: 纏足(てんそく:女性の足を縛る風習)の禁止!
「この教えに従えば、誰もが平等に暮らせる神の国(太平天国)ができる!」
失うもののない貧しい農民たちは熱狂し、信者はあっという間に数万人へと膨れ上がりました。
1851年、ついに彼らは武装蜂起(金田蜂起)を決行。洪秀全は自らを「天王」と名乗り、「太平天国」の建国を宣言します。
快進撃を続けた反乱軍は、1853年に大都市・南京(なんきん)を占領し、ここを天京(てんけい)と改めて首都にしました。
太平天国の乱の結果
南京を占領し、我が世の春を謳歌する太平天国でしたが、ここから内部崩壊が始まります。
彼らが掲げた「平等」や「禁欲」のルールは、一般の信者には厳しく適用されました(夫婦であっても男女は別々に生活させられるなど)。しかし、洪秀全ら幹部たちは、豪華な宮殿に住み、何十人もの妻を抱えるという完全なダブルスタンダード(二重基準)に陥っていたのです。
さらに、幹部たちの間で「誰が一番偉いか」という権力闘争が勃発します(天京事変)。
神の国を作るはずだったリーダー同士が殺し合い、数万人の信者が巻き添えになって粛清されました。この内部対立により、太平天国は一気に力を失っていきます。
一方、滅亡の危機に瀕していた清王朝も反撃に出ます。 正規軍がだらしなかったため、曽国藩(そうこくはん)や李鴻章(りこうしょう)といった漢民族の有力者たちが、自腹で地元の農民を集めて「郷勇(きょうゆう)」という義勇軍を組織し、太平天国軍を追い詰めていきました。
さらに、当初は中立を保っていたイギリスやフランスなどの西洋列強も、「太平天国が勝つと貿易に不利になる」と判断。西洋式の武器と訓練を取り入れた「常勝軍(じょうしょうぐん)」を派遣し、清王朝に味方しました。
1864年。 圧倒的な兵力で首都・天京(南京)を包囲された洪秀全は、絶望の中で病死します。指導者を失った太平天国軍は壊滅し、約14年に及んだ巨大な反乱は、数千万人の犠牲者を出して幕を閉じました。
曾国藩の湘軍・李鴻章の淮軍の覚え方
しかし、彼らは次第に仲間割れを始めていきます。こういう過激なグループを良く思っていなかった漢人の官僚は仲間を集めて義勇軍をつくります。ここでの義勇軍を郷勇っていいます。
有名なグループが2つあるので覚えておきましょう。
曾国藩(そうこくはん)の湘軍(しょう)、李鴻章(りこうしょう)の淮軍(わいぐん)です。
そうしよう!利口なY君!
曾国藩(そう)
湘軍(しょう)
李鴻章(りこう)
淮軍(わいくん)
扶清滅洋
扶清滅洋は、義和団事件の際のスローガンで、「清朝を助けて西洋を討ち滅ぼす」という意味です。
この言葉の理解のために、以下を押さえておきましょう
・義和団事件
義和団事件
19世紀末の中国(清)。アヘン戦争や日清戦争に敗れ、国土を西洋列強や日本に次々と切り取られていく「国家存亡の危機」にありました。キリスト教の布教も進み、特権を持つ外国人に対する民衆の怒りが頂点に達していたこの時代に、「呪術と拳法」を武器にしたある集団が立ち上がります。
それが、清王朝の運命にトドメを刺すことになった大事件「義和団事件(ぎわだんじけん)」です。
物語の中心となるのは、「義和団(ぎわだん)」と呼ばれる民間信仰と武術が結びついた秘密結社です。
彼らは「義和拳(ぎわけん)」という拳法を修めており、厳しい修行と呪文によって「神が乗り移り、刀や銃弾を跳ね返す不死身の肉体になる」と本気で信じていました。
外国人によって仕事や生活を脅かされていた農民や運送業の労働者たちは、この神秘的な力に希望を見出します。彼らが掲げたスローガンは非常にシンプルで過激なものでした。
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扶清滅洋(ふしんめつよう): 清王朝を助け、西洋人(洋鬼子)を皆殺しにして追い出す!
「俺たちは無敵だ!外国人を追い出せ!」 熱狂した義和団の数は数十万人にも膨れ上がり、教会を焼き討ちし、外国人やキリスト教に改宗した中国人を次々と襲い始めました。その勢いは止まらず、1900年、ついに首都・北京へと雪崩れ込みます。
8カ国の最強連合軍に、弱っていた清が勝てるはずもなく、北京議定書に調印し、賠償金の支払い、外国軍の駐屯を認めさせられました。
この暴動を見て、清王朝の実質的な最高権力者であった西太后(せいたいこう)は悩んでいました。
最初は義和団を弾圧しようとしていましたが、彼らの凄まじい勢いと「彼らは本当に銃弾を弾くかもしれない」という迷信、そして何より西太后自身の列強への強い憎しみから、あるトンデモない決断を下します。
「義和団を味方につけて、世界中を相手に戦争を起こそう!」
清王朝はまさかの「列強諸国への宣戦布告」を行います。義和団と清の正規軍は、北京にある各国の公使館(大使館)エリアを完全に包囲しました。中に取り残されたのは、外交官やその家族、護衛の兵士など約4,000人。
圧倒的な大軍に囲まれながらも、彼らは約2ヶ月間、必死の防衛戦を繰り広げます(北京籠城戦)。
この時、連携の取れない各国の兵士たちをまとめ上げ、防衛の要として世界から絶賛されたのが、日本の柴五郎(しば ごろう)中佐率いる部隊でした。
公使館の人々が絶望的な戦いを続けている頃、「自国の人々が殺されかけている」と知った列強諸国は激怒します。
イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、そして日本の8カ国が「8カ国連合軍」を結成。総勢約2万人の近代的な大軍が、北京に向けて進軍を開始しました。特に日本とロシアは地理的に近いこともあり、主力として最大の兵力を派遣します。
ついに連合軍と義和団・清軍が激突します。 しかし、ここで残酷な現実が突きつけられました。義和団の「銃弾を弾く魔法」など、近代兵器の前ではただの迷信に過ぎなかったのです。
機関銃や大砲の前に義和団はバタバタと倒れ、無敵の魔法が解けた群衆はあっけなく散り散りになりました。西太后は皇帝を連れてみすぼらしい農婦の変装をし、慌てて北京から逃亡。連合軍は無事に公使館の人々を救出し、そのまま北京を占領しました。
1901年、敗北した清王朝は「北京議定書(辛丑条約)」という絶望的な条約を結ばされます。
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国家予算の数年分にもなる天文学的な賠償金の支払い。
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外国軍隊の北京への駐留許可。
ただでさえボロボロだった清王朝は、この莫大な賠償金により完全に息の根を止められることになります。義和団は「清王朝を助ける(扶清)」つもりで立ち上がりましたが、皮肉にもその行動が王朝滅亡の決定打となってしまったのです。
この事件のドサクサに紛れて、ロシアは満州(中国東北部)に大軍を居座らせ、実質的に占領状態にしてしまいます。それに強い危機感を抱いた日本との間で対立が激化。わずか数年後、両国は朝鮮半島と中国大陸の覇権を巡って「日露戦争」へと突入していくことになります。義和団事件は、世界の歴史を大きく動かすドミノの最初の一枚だったのです。
まとめ
いかがでしたか?
滅満興漢と扶清滅洋、太平天国と義和団事件の解説でした。世界史の勉強ではしっかり理解することが点数につながっていきますので、ばっちり復習してマスターしておいて下さい!
それでは。



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