どうも!ケイトです。
青年トルコ革命を詳しく説明できますか?しっかり理解していないと、論述問題でパニクりますよね。
ということで今回は、青年トルコ革命について分かりやすく解説していきます。
Contents
青年トルコ革命
露土戦争を理由に、せっかく制定したミドハト憲法をアブデュルハミト2世が停止してしまったというお話は覚えていますか?
これに対して、当然民衆はぶち切れました。特に知識を持った青年、将校が不満を爆発させます。
なぜなら憲法を停止したアブデュルハミト2世は、あろうことにこれまでのイスラームの帝国的な国家体制に戻そうとしていたからです。
青年トルコ人たちは、スルタンの専制政治に反対するための組織ををつくり、体制をひっくり返すための運動を始めました。
また、オスマン帝国から東に行ったところにある小国、日本が大国であるロシアに勝ったというニュースが入り、「やはり憲法は必要だ!」という世論が過熱して、運動はより大きなモノになりました。
そしてついに、1908年、アブデュルハミト2世を退位させ、憲法を復活、青年トルコ人達が政権を握ることに成功するのです。
この出来事を、青年トルコ革命と呼びます。
ちなみにですが、この混乱に乗じて旨味を吸った国があります。それが、オーストリアです。
オーストリアは、パンゲルマン主義をかかげて、ゲルマン人の大きな帝国を作ろうと目論んでいたわけですが、パンスラヴ主義を掲げる、ロシアやセルビアと仲が悪くなっていました。
オスマン帝国で青年トルコ革命が起きるとオーストリアは、オスマン帝国の混乱を利用して、一方的にボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州の併合します。
これは、この2つの州には、多くのセルビア人が住んでおり、セルビア王国にとられてしまうとオーストリアは焦った訳ですね。
敵チームに領土拡大させたくなかったのでしょう。
当然、セルビアは怒り狂い、ロシアはセルビアを支援して、バチバチに対立します。これが、第一次世界大戦の火種の一つであることは言うまでもないですね。
その後
革命が成功したのはいいものの、気になるのはその後ですよね。青年トルコ人たちが政権を握った後どうなったか。
結論から言うと、国のあり方を決めるのに意見が割れて対立し、弱体化、それが滅亡に繋がっていきます。
まず、トルコ人を味方にするのか、イスラーム教徒を味方にするのかで揉めて、政治が不安定になります。
そんな状況下で、帝国主義の列強たちに侵略されていき、イタリア=トルコ戦争で北アフリカ、第1次バルカン戦争でもバルカン半島とクレタ島をどんどん失っていきます。
また、ロシアには何度も攻め込まれていたため、オスマン帝国はロシアが嫌いでした。そのため、第一次世界大戦では同盟国側で参戦します。
健闘するものの連合国に押され、同盟国側は敗戦してしまいますね。
オスマン帝国はセーブル条約という講和条約を結び、ほとんどの領土を支配されることになってしまいました。
その後、トルコ革命が起き1922年、オスマン帝国は滅亡のときを迎えることになります。
語呂合わせ
1908年、青年トルコ革命なので、
行く、オ~蜂、青年採る
1908(行く、オ~蜂)
青年トルコ革命(青年採る)
蜂好きの青年が蜂を捕るという語呂合わせでした。繰り返し唱えて覚えてしまいましょう!
まとめ
いかがでしたか?
青年トルコ革命について詳しく理解できたと思います。しっかり復習して、知識をものにして下さいね!
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それでは!
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