マムルーク朝を分かりやすく!同時代の王朝も!

みなさんこんにちは。ケイトです。イスラーム世界の勉強はいかがですか?少し混乱してきたかもしれないですね。

 

でも、少しずつ理解を深めていけば絶対マスターできます!みなさんがマスターできるように私も解説頑張りますね。

 

それでは今回は、13世紀にあったイスラーム王朝を解説していきます!

 

 

Contents

マムルーク朝

前回はアイユーブ朝のお話をしましたね。

 

ところで、アイユーブ朝や他の王朝で、軍を構成した人々のことはなんと言ったか覚えていますか?

 

思い出しましたか?

 

そう、「マムルーク」です。トルコ人の奴隷でしたね。

アイユーブ朝でも、マムルークを用いた軍隊を持っていました。

 

ところがbutだがしかし!

 

その軍隊が徐々に力を持ち始めます。もう鋭い人は感づいてるかもしれませんね。そうです。マムルーク軍団が強くなりすぎて、アイユーブ朝を打倒してしまうのです。

 

しかも、そのマムルーク軍のリーダーは女性でした。彼女は優秀で、マムルーク朝を建てた後も十字軍を追い返すほどの強者でした。

 

また、マムルーク朝のスルタンで覚えておいて欲しいのが、第5代目のスルタン、バイバルスです。なんかもう名前から強そうですね。

 

まあ実際強かったんですが、なにをしたかというと、

・イラクからシリアに侵入したモンゴル軍を撃退

・アッバース朝のカリフをカイロに復活させた

・メッカとメディナを保護下に

こんな感じ。

一つずつ見ていきましょう。

イラクからシリアに侵入したモンゴル軍を撃退

当時、モンゴルは超強い勢力で、広大な領土を支配していました。

 

圧倒的な軍事力で、世界を征服する勢いだったのです。

 

日本に攻撃もしています。みなさんがよく知っている「元寇」と呼ばれるものですね。

 

モンゴル人は海を渡っての戦いは苦手だったので、日本は助かったわけですが、陸地では狙われたら最後といっても過言ではありませんでした。

 

以前ちらっと紹介した、ホラズム朝は、チンギス=ハンの意向に背いて、国をズタズタにされました。

まあ、チンギス=ハンが送った使節を皆殺しにしたホラズム朝もホラズム朝ですが、

 

 

10倍返しくらい残虐なことをされて滅びました。(破壊、略奪、人口の4分の3を虐殺、国境付近の土地のリーダーの目と耳に溶かした銀を流し込む)

 

なにが言いたいかというと、そんなモンゴル軍を撃退したバイバルスは凄腕だということです。

アッバース朝のカリフをカイロに復活させた

これはどういうことかと言いますと、形骸化していたカリフをカイロに迎え、スルタンとして認めてもらったという事。

 

カリフは宗教的な権威で、スルタンは行政のトップでしたよね。しかし形だけでもカリフから認めてもらわなければスルタンは名乗れません。

 

モンゴル軍がアッバース朝のカリフを殺害し、アッバース朝は滅亡したあと、カリフの一族の1人がカイロに逃げてきて、マムルーク朝に保護してもらいます。

 

バイバルスは、その人物をカリフとして保護し、モンゴル軍を撃退した功績を認めてもらい、正式なスルタンの称号をゲットするのです。それなら今までスルタンではなかったのかというとそうではありません。

 

スンナ派の王朝では、世俗、軍事のトップとしての一般名詞として、スルタンが用いられたからです。カリフ?スルタン?え?と分からなくなったかもしれませんね。

 

シーア派だったファーティマ朝は、アッバース朝のカリフが嫌いだったので、対抗してカリフを名乗ったんです。

 

 

アイユーブ朝以後はスンナ派だったため、カリフの存在は尊重していたので、行政のトップとしてスルタンを用いました。

 

こんがらがったら、ゆっくり紐解いて理解してみて下さい。

メッカとメディナを保護下に

スルタンの称号を正式にゲットして勢いづいたマムルーク朝は、聖地のメッカとメディナを両方保護下に置きます。

そんなことができるのは、カイロにカリフがいるのが大きいですね。

聖地をどっちも保護下に置いた事で、マムルーク朝の権威が強くなりました。

同時代の王朝

ここからはマムルーク朝とほぼ同時代にあった王朝を紹介していきます!

奴隷王朝

その名の通り奴隷出身の人物が建てた王朝で、北インドを支配しました。建国者はアイバクという人物。

 

ゴール朝の将軍だった彼はインドの北インドの支配を任され、そのままデリーに王朝を建てちゃいました。すごい。

マムルーク朝も奴隷王朝も、マムルークがつくった王朝なんです。

イルハン国

イルハン国はアッバース朝の跡地にできた、モンゴル人の王朝です。建国者はチンギス=ハンの孫であるフラグ。

 

建国当初はイスラーム国家ではなく、マムルーク朝と敵対しますが、7代目のガザン=ハンのときに、イスラーム教が国教になりました。

 

支配されたのはイラン人が多数だった訳ですが、彼らは高度な文化伝統を持っており、モンゴル人に支配されていても、消えることはなく、逆にイルハン国はイラン的な文化を持つようになったのです。

 

そこで、イラン色の強くなったイルハン国で、ガザンはイスラーム教に改宗したのですね。

 

彼は、ラシード=アッディーンを大臣にしてイスラームを進め、イラン=イスラーム文化を成熟させるとともに、イスラーム式の税制の導入や農村の復興に力を入れました。

 

ラシード=アッディーンは歴史家としても有名で、モンゴル中心のユーラシア世界史「集史」をペルシア語で著しました。

 

ガザンハン、ラシードアディーン、集史はよく試験で出ます。よく覚えておいてください。

ナスル朝

最後に、イベリア半島のナスル朝です。

 

レコンキスタのところでも触れたかもしれませんが、イベリア半島の最後のイスラーム王朝です。スペイン王国がグラナダを陥落させ、レコンキスタを完成させたというお話でしたね。

 

試験でナスル朝が出てきたときに、すぐに頭に浮かべて欲しいのが、アルハンブラ宮殿です。彼らの高度な文化や技術は、キリスト教世界に多大な影響を与えました。

 

まとめ

 

いかがでしたか?

13世紀のイスラーム世界の解説でした。どこかで分からなくなると、その後はまったく理解できなくなって勉強が嫌いになってくるので、ゆっくりでいいですから、理解をしっかり深めることに努めてみてください。

 

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