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フランス革命への対応
対外政策をめぐる対立の激化
ジョージ・ワシントン政権を構成するメンバーの中には親英派と親仏派が存在していました。これにより、ヨーロッパで対立が起こったとき、どっち側につくか等もめるようになり、内部対立を激化させる一因となりました。
フランス革命勃発時には、フランスとイギリスの双方がアメリカに働きかけをしますが、アメリカはどちら側にもつかないという決断をし、1793 年 4 月に中立宣言を発表しました。
アメリカ独立戦争でフランスに助けられた過去があったものの、まだアメリカは経済力の弱い小国という自覚もあり、いちいち関わっていたらキリがないという考え方があったようですね。
リパブリカンズの成立
かつてフランス駐在大使であったジェファソンは、中立宣言を機にワシントンやフェデラリスツと激しく対立。通商を重視しイギリスとの関係を重視しようとするハミルトンとも仲が悪かったと言います。こうして、国務大臣を辞職し、一時政府を去ることとなりました。
1794 年、今度はジェイ条約によりイギリスとの同盟関係を選択します。ジェイ条約のジェイは、ジョン・ジェイのジェイですね。これによりフランスとの関係悪化してしまいました。
また、フェデラリスツは 1796 年大統領選挙ではジョン・アダムズがジェファソンを僅差で破って
政権を維持しました。(ジョージ/ワシントンはここで勇退)
当時の憲法の規定では、大統領選挙で2位になった人が副大統領になるルールだったので、トマス・ジェファソンは副大統領になります。
アダムズ政権期では、親仏派を介したフランスの浸透を抑止するため、1798 年に外国人・治安
法制定し、アメリカは次第に孤立を始めて行きます。
リパブリカンズ優位の時代
1800 年の政権交代
1796 年と同じ顔合わせとなった 1800 年大統領選挙では、ジェファソンがアダムズに勝利。2位のアーロン・バーは副大統領になります。
フェデラリスツは選挙後、ジェファソンを代表とするリパブリカンズに政権を取って代わられるのを嫌がり、翌年 3 月のアダムズ大統領の任期満了までの間に、主に判事任命を通して自らの勢力を連邦政府に残そうと考えました。
また、この時期に司法審査権が確立され、法律が合憲かどうかを最高裁判断するようになりました。(マーベリー対マディソン事件)
さらにジェファソンは、大統領選挙選で2位になった奴が副大統領になるのはおかしいと考え、1804 年の憲法修正12 条で、正副の大統領は別個に選出されるようにしました。
リパブリカンズの政策上の特徴
フェデラリストに対抗するリパブリカンズ。
中心的な支持基盤は西部自営農民と南部プランターで、農業利益と州権を重視した政策を打
ち出しました。まさにジェファソン的考えですね。
1820 年頃までにフェデラリスツは完全に政治の舞台から姿を消してしまい、事実上のリパブリカンズ一党制が成立していきます。
また、この時期は表面上の対立、紛争が少なく、比較的穏やかだったので、「好感情の時代」と呼ばれました。
代表的な政策:「アメリカン・システム」の確立
リパブリカンズが行った政策として以下の3つがあります。
① 国内交通手段改善事業への着手
② 公有地払い下げ方針の変更
③ ミシシッピ川以西への領土拡大と州の増大
まとめると、農作物を安全に運ぶために、陸路での交通手段が整備され、農業がもっとできるように、国が持っている土地を独立自営農民やプランターに売りました。
そして、土地をどんどん広げていったという訳ですね。
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