どうもケイトです。
この記事では、「均田制と屯田制がごっちゃになる。。。」という悩みを解決していきます。それではいきましょう。
Contents
均田制と屯田制の違い
均田制と屯田制はよく似ているように見えて、目的が異なります。
均田制→北魏で、すでに農地化されている土地を農民に分け与えることで税収を「安定」させる制度
屯田制→魏で、まだ農地化されていない荒廃地などを農民に割り振って開拓、耕作をさせることで税収を「増加」させる制度
均田制とは
均田制は北魏の太武帝が農耕社会の安定につとめるために始めた制度で、北斉・北周、隋及び唐の時代にも採用されました。
均田制は、最も単純に言えば農民に等しく土地を与える制度です。
すべての農民が平等に土地を与えられるわけですから、農民は自分の耕作地を確実に確保することができ安心して農業を行うことができます。
一方で、国が農民に土地を与えるため、国家はどの農民がどれだけの土地をどこに持っているのかということをすべて把握することができます。
このことにより、国家は農民からきちんと税を取り立てることができるようになったのです。
農民に与えられた土地はあくまでも公有地という扱いであったので、この制度は同時に、国内の全ての耕作地は国家のものであったいうことも意味します。
少し詳しく見ていきます。均田制は、府兵制と租庸調制と共に律令制国家を支える三本柱でしたね。
律令制国家とは、律令という法律に従って、その法体系によって運用されている国家のことです。いわゆる、法治国家。
国家を運営していくためには、資金と、国を防衛するための兵士が必要になります。
これらを確実に確保するためには、どういう基準で徴収するのかということをわかりやすく定める必要がありました。
この時代に基準となったのが土地で、その土地の与え方を定めたのが、均田制なのです。基本的に基準となったのは土地の広さでした。
当然ながら、税金を収める能力の高いものに多くの土地を与える必要がありました。
くわしく言えば、年齢と性別によりこれは異なり、その基準は時代ごとに異なるのですが、大まかにいえば、10代後半から60歳程度の働き盛りの男性は最も多くの土地を支給され、女性にはその約半分といったところです。
均田制が始まった北魏を具体的に例として挙げれば、15歳~69歳の男性には穀物生産用地が40畝、女性には20畝、奴婢(奴隷身分の人のことです)にも同額(男40畝、女20畝)が割り当てられていました。
その他、色々と細かい規定はありますがそこまで要求されることはほとんどありません。国家はこのようにして与えた土地を単位として、租庸調の税金を徴収し、兵士を徴発したのです。
屯田制とは?
屯田制は魏の曹操が始めた制度で、国家が国民に土地を与えて、「耕作しとけ」と命令したものです。
戦乱で荒廃していたり、それまで手をつける人がいなかったりする荒廃地などを耕作してそこからも税収を得るために、国がそこを開拓し耕作する人を集めて送り込み、彼らに土地を与えて耕作を行わせるものです。やっぱ税収命ですね。
荒廃地とは言え国の領土なので公有地という扱いになり、国家が農民に土地を与えるという構図は均田制と同じです。
まとめると、
均田制はすでに農地化されている土地を農民に分け与えることで税収を「安定」させる制度で、
屯田制はまだ農地化されていない荒廃地などを農民に割り振って開拓及び耕作をさせることで税収を「増加」させる制度ということになります。
均田制と屯田制の違い
均田制と屯田制はよく似ているように見えて、目的が異なります。
均田制→北魏で、すでに農地化されている土地を農民に分け与えることで税収を「安定」させる制度
屯田制→魏で、まだ農地化されていない荒廃地などを農民に割り振って開拓、耕作をさせることで税収を「増加」させる制度
まとめ
いかがでしたか?均田制と屯田制の違いを解説しました。目的から考えてみると、ごっちゃにならずに済みますね。
この知識をぜひ試験に生かしてみて下さい!
ここでお知らせ!
世界史の勉強法が分からない、成績が全く上がらない、という人のために今だけ無料で「世界史の偏差値を50から60した方法」を配布しています
ぜひゲットして、効率良く世界史の成績を上げていきましょう。
以下のボタンから、メルマガ登録して頂くと、手に入れることができます。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。それでは!
コメントを残す
コメントを投稿するにはログインしてください。