どうも!ケイトです。
ウラービーの反乱とマフディーの反乱、的確に説明ができますか?
今できなくても大丈夫。しっかり確認して覚えていきましょう。
Contents
ウラービーの反乱
ムハンマド・アリー
まず、オスマン帝国の支配下にあったエジプトのお話から。
1798年、フランスはナポレオンの遠征によってエジプトを占領しましたね。
フランス革命は世界史において超重要なので必ず押さえておきましょう。
しかし、その後フランスはオスマン帝国とイギリスの連合軍に敗れ、オスマン帝国がエジプト支配の主権を取り戻します。
支配する側がコロコロ変わって、エジプト側は大迷惑ですね。そもそも支配すんなやって話。
ただ、この混乱を利用して行動を起こした人物がいます。それが、ムハンマド・アリーという人物です。
彼は、カリスマ的存在で人々の人気を集め、エジプト総督になります。
しかも、その勢いが凄まじくオスマン帝国もこれを認めざるを得ませんでした。相当なカリスマですね。
はい、これによって1805年、エジプトではムハンマド・アリー朝が成立します。
エジプトの富国強兵
ムハンマド・アリー朝時代には、マムルークを排除、近代的な陸海空軍の設置、造船所、官営工場などの軍事的政策から、
商品作物の奨励、農作物の専売、教育制度の改革などの経済や教育の政策まで行いました。
いわゆる富国強兵政策です。
また、彼らはオスマン帝国の言うこともちゃんと聞き、当時アラビア半島にあった、ワッハーブ朝を滅ぼしました。
さらにさらに、オスマン帝国に「シリアちょうだい」と言って拒否されると、一方的にぶち切れて奪い取ろうとしました。(エジプトトルコ戦争)なんて奴だ。
ウラービーの反乱
近代化をしようしようと焦り、お金をそこら中から借りて動けなくなったエジプトは、まもなくイギリスとフランスの財務管理下に置かれました。
特に、イギリスはスエズ運河の株を4割も購入し、支配力を強めていきます。強欲ですな。
ただし、エジプト側も黙っていません。ウラービーという人物が立ち上がって反乱を起こしました。
しかし、イギリスに鎮圧され、本格的にイギリスの支配下にはいることになってしまいました。
支配が強まってしまったエジプトですが、ウラービーの反乱は独立や立憲制の確立を求める運動(ウラービー運動)に変わり、エジプト民族運動の原点になりました。
負けた試合でも意義はありますね。
マフディーの反乱
マフディーの反乱は、1881年にアフリカのスーダンで起こったエジプト、イギリスへの反乱です。
マフディーとはアラビア語で「導かれた者」、または「救世主」を意味します。反乱はイスラーム教徒でした。
ムハンマド=アフマドという人物は、自分でマフディーを名乗り、「勝手なエジプトとイギリスをやっつけよう」と呼びかけ仲間を集めます。
その頃スーダンはエジプト支配下にありましたが、イギリスに乗っ取られようとしていました。
その結果、同じ1881年エジプトでも、ウラービーの反乱が起き、エジプト政府は、スーダンの反乱を鎮圧するのは不可能な状態にあり、スーダンを支配していた現地の政府は絶体絶命、マフディー側はもう少し頑張れば勝利みたいな状態に。
それでどうしたか。この頃フランスは、アフリカ横断政策をとっていて、支配下に収めるためにスーダンに進出していました。
これに目を付けたイギリス。「スーダンも制圧、これに紛れてフランス倒したら、アフリカは俺のもの」
そう思ったイギリスは、スーダン制圧を決意し、すごい規模の軍で攻め込みます。
マフディー軍は全滅、圧倒的軍事力でイギリスは、反乱を鎮圧しました。おまけに、ファショダ事件でフランスが譲歩し、アフリカはほとんどイギリスのものに。
おいしいところ持っていきますよね。イギリスは。
っていことで、この後スーダンはイギリス植民地として、支配されます。また、ファショダ事件が起こったので、第一次世界大戦がもうすぐですね。
復習しておきましょう。
まとめ
いかがでしたか?
ウラービー、マフディーについて解説しました。しっかり復習して身に付けちゃいましょう。
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それでは!
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