【世界史】漢を分かりやすく!

みなさんこんにちは。ケイトです。

今回は、郡国制を分かりやすく、また漢の徹底解説もしていきます。郡県制との違いもわかってきますよ。それではいきましょう。

 

Contents

前漢

前漢は、農民出身の劉邦が、前202年、秦に代わって樹立した中国の統一王朝で、都は渭水盆地の長安です。

 

基本的な制度は秦の制度を継承しましたが、秦の急な統一政策の失敗に配慮して、前漢独自の制度も整備されていきました。

 

その代表格が郡国制です。秦の郡県制を反省して、郡県制と封建制の良い所取りをしたわけです。

 

しかしその郡国制ですが、短期間のうちに事実上消滅してしまいます。

 

そのきっかけが呉楚七国の乱です。

 

呉楚七国の乱は、漢の第6代景帝の即位後、前154年に、有力な諸侯王国のうちの、呉・楚・趙など、中国東南部の七国が、中央政権に対して連合し、挙兵した内乱のことです。

 

各国の王は劉氏一族で高祖によって国王として封じられた者の子孫でした。

 

当時の中国を二分する内乱となりましたが、彼らが中央政府に反発したのは、中央政府が諸侯王の封地を削減して皇帝の直轄地を拡大しようとしたからでした。

 

しかし反乱はわずか三ヶ月で失敗し、鎮圧されました。

 

それを境に漢帝国の諸侯抑圧策は強化され、次の武帝の時代には郡県制がさらに拡大され、実質的な中央集権体制となっていきます。

 

武帝の時代

第7代皇帝の武帝は、国内外で多方面にわたって政策を施していきます。

 

対外関係では、対匈奴の積極策を模索し、前139年に張騫を大月氏国に派遣、敦煌以下の四郡(河西四郡)を置いて西域への進出拠点としました。

 

匈奴に対する軍事行動は、前129年から衛青には7度にわたって遠征させ、前121年には霍去病を派遣して西域の匈奴勢力を一掃させました。

 

前104年には李広利を大宛(フェルガナ)に派遣して討ち、西域にその勢力を伸ばしていきました。

 

前112年には、ベトナムの南越を滅ぼして日南郡などを置き、前108年には朝鮮にも侵出して楽浪郡以下の四郡を置いて直轄領としました。

 

このように武帝時代には、その版図を中華以外の世界に拡大し、文字通り漢帝国を出現させました。

 

国内政策では、郡県制を拡大させ、ほぼ全土への統一的支配を実現させました。

 

また、官吏登用制度では郡県制を基盤として郷挙里選(地方豪族の子弟が推薦されて中央の官吏となる)の制度を設け、人材登用を図りました。

 

また統一国家の理念として董仲舒の意見をいれて他の諸子百家の説を退け、

 

儒家のみを尊重する路線(儒学の国教)を打ち出し、帝国の路線を明確にしました。

 

さかんな外征と土木事業は帝国の財政を圧迫したため、財政再建を図る必要が生じました。

 

そのため重税策を取り、また塩・鉄・酒の専売制や五銖銭の発行などによって財政の安定を図りました。

 

また地方の余剰物資を貢納させ、不足地に転売して物価の均等化を図るとともに政府の収入とした「均輸法」、

 

ある商品の価格が下がった時に政府が買い取り、その価格が上がった時に売却して物価安定を図るとともに、利益を国家財源に充てた「平準法」も大きな改革として挙げることができます。

武帝の死後、幼い皇帝などが相次ぎ、やがて宦官や外戚などの親族が実権を握るようになっていきました。

 

そのなかで前漢が衰退していき、8年に外戚の王莽が帝位を奪い、新しい王朝「新」を建国しました。

 

周王朝を模範とした復古主義的な政治を行っていきました。

 

しかしその政治は時代に合っておらず、混乱が起きてしまいました。

これが赤眉の乱です。

 

全国で反乱が続発し、23年に王莽は殺害されました。ここに新王朝は短すぎる幕を閉じました。

後漢

漢王朝の外戚の王莽は帝位を奪い、新を建てましたが、赤眉の乱などの農民反乱が起こり、統治能力を失いました。

 

混乱の中から台頭した漢の劉氏一族の劉秀は、25年、光武帝として帝位につき、漢王朝を復興させました。これ以降を後漢(ごかん)といいます。

 

中国では、長安を都にした前漢を西漢、後漢を東漢と言うことが多いです。

 

後漢は、都は長安ではなく洛陽におきました。

 

光武帝は27年までに赤眉の乱を鎮定し、王莽に対して自立していた地方の政権を次々と倒し、36年ごろまでに統一政権を確立させました。

 

光武帝は王莽の時に定められた制度のすべてを廃止し、前漢の制度を復活させ、奴婢の解放、耕地・戸籍の調査、田租の軽減、郡兵の廃止などの民生安定策を実施しました。

 

匈奴(東匈奴)は光武帝の時代にも脅威となっていたが、48年には南北に分裂し、そのうちの南匈奴は後漢に降伏しました。

 

また光武帝時代にはベトナムの徴姉妹の反乱があったが、それを平定しました。

 

当方の倭人の使いが来て光武帝に謁見したのもその晩年の57年のことでした。

 

しかし2世紀以降、後漢も幼い皇帝が相次ぎ、宦官・外戚勢力と郷挙里選によって中央に進出し儒学を学んだ豪族出身の官僚が対立していきました。

 

そして166年に宦官勢力が、官僚勢力を大量に弾圧・追放した「党錮の禁」が起き、社会不安が増大し、宗教結社が台頭していきました。

 

その代表格が張角が創始した「太平道」です。

 

呪文、祈祷などによる病気治療などを売り物に、大勢力に発展していき、184年には宗教反乱「黄巾の乱」が発生し、各地で反乱が続発し、「魏」「呉」「蜀」の三国時代へと入っていきます。

 

220年に魏の曹丕が帝位を奪ったことにより、後漢は滅亡しました。

まとめ

いかがでしたか?

中国史は特に一つ一つの理解と違いの説明が大事になってきます。地道にやっていきましょうね。

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それではまた会いましょう!

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