どうもケイトです!
ややこしい世界史用語の違いシリーズということで今回は、ピューリタン革命と名誉革命の違いについて解説していきます!
Contents
ピューリタン革命と名誉革命の違い
王政から立憲君主制に転換するイギリス革命の一部がピューリタン革命と名誉革命です。イギリス革命はピューリタン革命から始まり、名誉革命で終わります。
ピューリタン革命は王政から共和制になる革命。
その後王政が復活して、立憲君主制になって終わるのが名誉革命です。
それでは詳しく見ていきます。
ピューリタン革命
ピューリタン革命というのは、ピューリタン(カルヴァン派である人々)を主導に、絶対王政を終わらせた革命のことです。
発端
イギリスの王位を継いだステュアート家は、
「王権は神から授かってる。だから俺イコール神。市民逆らえない。yeah」みたいな考えでした。王権神授説ですね。
ジェームズ1世は、議会を無視し重税を課して、人々は不満を溜めていきました。次のチャールズ1世になった時、議会は王様は勝手に税金をとったりできないことを決めます。
それが「権利の請願」。しかし王は議会を解散させます。人々は当然怒りますよね。
そうしてピューリタン革命が始まっていくわけです。国王と議会は激しくケンカし、同じ議会派でも独立派、長老派に分裂します。
クロムウェル
独立派は国王としっかり戦おうとした人達。長老派は憲法が有れば王様はいてもいいんじゃない?と考えた人達です。こんな大混乱のイギリスで、救世主が現れます。
それが独立派のクロムウェルです。
ピューリタンを中心に鉄騎隊という軍隊を作り、上手く統制し、議会派を勝利に導いたのです。勝利すると議会から長老派を追放し、王を処刑します。
こうしてイギリスは王のいない状態、共和制になりました。
独裁政治
しかし王のいない状態に混乱が起き、議会は好き勝手に難しい法律を作ったり、議会派の中でも急進的な水平派が出てきたりします。
やがてクロムウェルは独裁政治を始めるようになります。
アイルランドでプロテスタントが殺されたのを知ると、アイルランド征服を行い、カトリックを弾圧。
スコットランドをイングランドに吸収したり。
貿易をする時は、取引をする国の船じゃないとダメという航海法をつくって、中継貿易で栄えていたオランダを攻撃したり。
クロムウェルのやることはどんどんめちゃくちゃになって行き、ついに護国卿という謎の地位を作り、就任してしまいました。
クロムウェルが病死した後、また混乱状態になったイギリスはチャールズ2世という王を迎え、また王政に戻ってしまいました。
これを王政復古と呼びます。名誉革命は立憲君主制になって終わる革命で、この一連のイギリス革命を終結させました。
名誉革命
王政復古でチャールズ2世が戻ってきて、カトリックを擁護し、議会と王がまたもや対立しました。
トーリ党、ホイッグ党
議会は官僚は国教徒しかなることができないという審査法、勝手に逮捕、投獄することを禁じる人身保護法を制定して、対抗します。
やがて王様派のトーリ党、議会派のホイッグ党という2つの政党が誕生しました。
権利の章典
チャールズの弟のジェームズは王位を継ぎ、ジェームズ2世となりましたが、彼もまた王権神授説を信じて、絶対王政の復活を目指しました。
「まじかよこいつ。」
と思った人々はジェームズ2世の長女の夫であるウィレム三世をオランダから召喚します。
彼は新教国オランダの総督で、若くしてそのような地位につく凄腕でした。
カトリックを抑えたり、フランスと渡り合うのにふさわしいと考えたのです。これを見たジェームズはチャールズ1世が処刑されたことを踏まえ、亡命。
議会は、ウィレム三世とジェームズ2世の長女のメアリに王様は好き勝手できないよという「権利の宣言」を提示し、2人はこれを受け入れてイギリスの王となりました。
議会はこの宣言を「権利の章典」としてまとめ、これがイギリスの憲法的な役割を果たすようになります。
こうしてイギリスは立憲君主制に転換したのです。
違い
もう一度確認しておくと、
ピューリタン革命は王政から共和制になる革命。
その後王政が復活して、立憲君主制になって終わるのが名誉革命です。
もうバッチリですね!
まとめ
いかがでしたでしょうか?
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