Contents
総督が知事に
このような経済的な課題の背景にあったのは、各ステートの政府の運営がうまくいっていないことでした。
当時のアメリカの政府の運営構造として、本来は総督が統治者として行政部門の責任者として、議会を抑制していくということが想定されていました。しかし、独立後、総督が知事という地位になり、知事は議会に選任され、さらに非常に短い任期で限定的な権限しか与えられなくなりました。
そもそも総督のその政治的な権力の源泉は、イギリス国王の代理人であるっていうところに強く依存していたわけですから仕方がない面がありますね。総督の後継ポストである知事の影響力が大きくなる余地はほとんどないわけです。
しかも植民地官僚の人達の相当数はイギリスに帰ってしまったり、あるいは政府から排除されたりしたので、議会と行政の抑制均衡関係みたいなものが機能しなくなっていきます。
知事を議会が選任するやり方は、議院内閣制で非常に近似した仕組みとも言えます。知事に選任される人がその議員であれば、議院内閣制に限りなく近いですよね。
権力分立制、あるいは大統領制と議員内閣制は18世紀の末から19世紀の初頭に分岐して行きます。
イギリスの場合は、名誉革命以降、段々国王の影響力が低下をして行くことで、行政部門の担い手が、議会から信任された内閣に移っていき議院内閣制という仕組みになっていたわけです。
アメリカの場合も、そういうふうな仕組みになってもおかしくなかったんですね。国王のその代理人としての地位を失った知事、総督は、イギリスにおいて、国王の信任が不要になった首相内閣とよく似たようなポジションに置かれました。
しかし、アメリカの場合は議院内閣制になりませんでした。大きな理由としては、イギリスに比べてアメリカは、この有権者の範囲が圧倒的に広いんです。
これは民主化が先を行っていたからでした。
イギリスにおける議会は一般市民の代表ではありません。貴族院と庶民院からなっていても、「庶民」院を選ぶ有権者資格を持ってる人はべらぼうな金持ち。資産家名望家で、貴族ではないという場合に庶民院の選挙で利益表示していました。
全体として見れば、その上流階級のごく一握りの人たちだけが議会政治に関与し、議会や性質を持った議会と君主がその対峙するっていうのが、18世紀からそのあの19世紀初頭のイギリスの政治のあり方ということになるわけです。
19世紀を通して、選挙法改正、複数回の選挙法改正で有権者層を拡大して行くことで、その議会っていうのを、民主主義的な装置に変えていくわけですね。
アメリカの民主政治
アメリカに話を戻します。
アメリカの場合にはイギリスにくらべて、議会が民主主義的な機能製造装置として機能する点では先を行っていました。
しかし、そうであるがゆえに、やはり政府の運営がうまくいかなくなります。
民主主義は少なくとも19世紀後半末ぐらいまで、危険で、リスクが高いと考えられていました。古代ギリシャのアテネの民主政は破綻をしましたしね
それなのに、なぜ各ステイトがそのような政治の仕組みを導入したのか。
一つは、独立戦争の頃に時にそれほど裕福ではない一般市民、庶民と言われるような人たちが非常に大きな戦力になって特に歩兵として非常によく戦ったために、彼らの意向を無視できなかったことでした。
もう一つ理念的に、共和主義という考え方が一般的だったこと。もともとはギリシャが民主主義のルーツだとすれば、ローマは共和主義のルーツでした。「市民的徳性」を持っている人が統治すべきと考えられていました。
共和政と市民的徳性
中世的な秩序と近代的な秩序の違いは、秩序が人間に由来しているかどうかです。
中性的な政治思想では、生まれながらにして君主になることが運命づけられている存在、神が認めてる、神様が認めている良い系統に属している人、家系の人はなるべくして君主になる。
近代の政治思想では、人間の営みとして政治秩序、政治、権力というものを考えていくという思想です。マキャヴェリはルネサンス初期に君主論という本でそのことに触れています。
このような思想の転換を踏まえて、共和主義の基本的な理念としては、「ちゃんと考えられている人が君主になるべき」というものです。
世のため人のため、あるいは社会のためのことを責任持って考えられる能力を市民的徳性と呼び、これを備えた人だけが政治を動かすべきだと。
いずれにしてもそれは君主制にとってはラディカル。他方で、能力がない市民もダメなんだと考えていくこともできます。生まれながらにして有権者であるとかいうような考え方に対してもやっぱり否定的になる。民主制に対しては、やっぱり抑圧的な要素もありました。
共和制はアメリカの当時エリートに当たるような人たちの中では、広く共有された考え方でした。古典の議論だと、統治システムをつくるのは難しかったんですね。
国家制度決めで大混乱
18世紀の後半から末にかけて、アメリカでも政体論についての議論は共有されるようになっていました。しかし、明確な対応策っていうのが取れていないという状況でした。
エリート主義的な要素政治体制に組み込もうとしたステートがありましたが、非常に激しい反発を受けました。
かと言って凡人が政府を動かすにあたり、「公共心を少し持てば、政府がうまくいく」という発想ではなかなかうまくいきません。
連合規約の時代は、ステート内部の政治や、ステート相互間が混乱、そしてアメリカと外国との関係が悪化するという最悪な状態に置かれていました。
この苦境を脱するために、アメリカはまたイギリスの植民地になるべき、アメリカも君主制を、という議論もありました。
今はアメリカは非常に広大な共和政国家ですが、当時としては、広大なアメリカで共和制でやれるわけないというのが当時の社会常識でした。ローマも結局は帝国になりましたものね。
コメントを残す
コメントを投稿するにはログインしてください。