①【大学世界史】アメリカ独立戦争を超詳しく解説していく!

 

どうも!ケイトです。

 

このシリーズでは、私が大学で学んだ内容を文字起こし、修正したものを紹介しています。

 

今回は、アメリカ独立戦争についてです。この記事は10分前後で読めます!

 

Contents

ボストン・ティーパーティー

北アメリカ国民が次第に反発を強めていきます。

 

1763年に、パリ条約によって7年戦争が終わるわけが、その後、砂糖法、印紙税法より課税、タウンゼント法による課税強化が起こります。

 

アメリカで商社をやってるような人たちが、経済的な側面に注目をしながら、関税強化反対運動をしていくのですが、うまくは行かなくなってきます。

 

最終的には、最も悪い73年の茶法。ここで、抵抗運動が、特にマサチューセッツ州で盛んに起こりました。そして、イギリスの茶をボストン港で投げ捨てるというボストンティーパーティー事件が起こります。

 

このボストンティーパーティー事件が、茶法を作ったことによって、反発として起こりますが、それで終わったのかというと、そうならず、、、、

 

イギリス本国は、政治的な弾圧をマサチューセッツ植民地に加えることになります。それが1774年の強制的諸法といわれるものですね。 

 

マサチューセッツ植民地がトラブルの源泉になっているとし、タウンミーティングを禁止するなどを行い、ボストン港も閉鎖。

 

ニューイングランドで最も重要な港ということですし、北アメリカ植民地の中でも、地元の重要なものの一つですから、それを閉鎖するというのは経済政策を狙ったのでしょう。経済制裁であり、政治的な抑圧であるというふうな側面を持っていました。

 

そして、強制的諸法は、北アメリカ植民地側、やっぱりアメリカに対する政策をイギリスは変えるつもりがないんだと言うことをはっきり認識させることになります。

大陸会議

こういったような状況を受けて、抵抗っていうのをもっと組織的にやっていかないといけないということになり、同じ1774年に大陸会議という会議が開かれます。

 

植民地各植民地の代表者が集まってイギリスに対する抵抗運動っていうのを一緒にやっていこうと。

 

ちなみに、70年の第一回大陸会議には、ジョージアという植民地はメンバーを送っていません。ジョージア一番南ですね。サウスカロライナの斜めした、つまり南西側にある、ほぼ台形に近いような形をした地域で中心はアトランタ。

 

このジョージアは独立13週を形成する、大きな重要な植民地の一つでした。ジョージアはイギリスとの関係が深て、南部の中でも親英的。

 

13の植民地が一致団結して抵抗しよう、独立しようなどの同じことを考えていたのかと言うと、全然違うんです。独立してからしばらくの間、合衆国憲法制定に至るまでの過程の中で、ずっと足並みが乱れてるんですね。

 

別個に成立した植民地が、そのルーツにおいて共通しているからという理由で簡単にまとまれるっていうほど単純な話ではないんです。

 

アメリカがまとまってイギリスに抵抗して独立しました。独立して憲法を作りました。新しい国を作りましたって。そういうふうなシンプルな単純なストーリーじゃないんですよね。

 

 

この大陸会議時点では、イギリスと衝突をして、いわゆる独立戦争っていう形に呼ばれるようになる戦争をしよう、つまり軍事的手段によって独立を達成しようっていうことを考えていたわけじゃないんです。

 

独立するかどうかについてすら、意見の合致はなかったと言えます。

 

第一回大陸会議では、戦争して独立するんだっていう意思統一ができていなかったんですが、しかし、75年に入るとこれもかなりの程度まで急進的な勢力がけしかけたというふうにも理解されますけれども、軍事衝突が起こります。これが起こったのはやはり、そのもっとも強い反発があった地域のマサチューセッツ州

 

そして、ボストンの郊外にレキシントン、コンコードという二つのまあ近接した街がありますけれども、そこにイギリス軍の兵器庫があります。そこを暗闇に乗じて襲撃したんです。

 

イギリスにとっては、自分たちに攻撃しかけてきたことになるわけですから、武力を持って反撃をし戦争が始まるわけですね。

 

独立戦争 始まる

衝突が起こり、いわゆる独立戦争になる闘いが始まる。じゃあ独立っていうことで、アメリカ側が一本化されているのかっていうと全然やっぱりそういうわけではないわけですよね。

 

どちらかというと、アメリカは、イギリスの憲法構造に即して、イギリスの伝統的なものの決め方、あるいはその国の仕組みに反しているんだという主張しています。

 

すなわち、イギリスは本来憲法に基づいて権利が守っている国なのに、アメリカに対しては平気で経済的な自由を奪ってくるような、課税立法をしてくるのはおかしいと。

 

代表なくして課税なし」だとそう主張しました。

 

74年、75年の武力衝突の頃も、第二回の大陸会議で開かれていますが「独立する」ということを明確に求めていたわけではありませんでした。

 

ただ、1776年には独立宣言が出されます。独立宣言をこの大陸会議で起草することが決まるんです。その起草委員として、トマス・ジェファソンが出てきます。

 

しかし、独立宣言を出すことについてもめます。

 

特に植民地官僚、国教会、牧師さん、農民からなる、忠誠派。イギリスに対する忠誠心を高く持っている人達です。

 

対して、独立したいな!と思っていた愛国派(ペイトリオッツ)がいました。

 

さらに、どのように独立するかについては愛国派の中でも対立がありました。

 

何が何でももうとにかく独立して行くしかないんだという主張をした人たちは急進派。急進愛国派はジャーナリストであったり、西部農民層がいました。

 

対して、イギリスが態度を改めてもらうように、やっていったらいいんじゃないですか?みたいな事を言う人たち、あるいはそんな戦争なんかをして勝てなかったらどうするんだと主張したのが、穏健愛国派です。

 

穏健愛国派には、南部プランターや、中部、ニューヨークとかのあたりの比較的ええお金を持っていて、かつイギリスとの貿易によって、相当の経済的利益を得ていたような人がいました。

 

穏健愛国は特に独立は求めてなかったんですね。

当時、アパラチア山脈より西側の領域はフランス領でした。少なくともフランスは支配してませんでしたが、フランスと友好関係にあるネイティブアメリカンがいました。そして7年戦争後はイギリス領です。

 

イギリスとしては、北アメリカをどう開拓して行くかっていう方針がまだはっきりしてないんですね。で、あんまり安全ではないっていうこともありましたし。

 

例えばネイティブアメリカンが入植者たちがこう揉め事を起こすと、その費用はイギリス政府が払うことになるんです。そういうこともあって、アパラチア山脈より西側の入植を許可しませんでした。

 

ただ、それに対するやっぱり反発はすごくあるんですよね。

 

この植民地の中には、イギリス本国を見てる集団もあれば、西側の大陸を見ている人たちもいるわけです。

 

この違いには、各植民地が持っている社会経済的基盤や宗教的基盤などが影響していました。

 

こういう中でその独立しないと、もうダメだというふうに思っている人たち。急進愛国派と呼ばれてる人たちというのは、そういう主張を強く、もっと強く訴えかけていけばいかない。

 

そうしなければ、自分達への支持が、植民地の内部でも広がらないし、ほかの国々、つまりイギリス以外のヨーロッパの国々に、対して自分たちの動きをアピールすることもできないと。

 

 

結果、そのような考えに基づいた活動の一環として「コモンセンス」(トマスペイン)があります。今では近代政治思想の重要文献です。

 

「イギリスと一緒にやって行くことはできない。私たちがその自分たちのあの植民地としての当然の権限を主張して行くためには、独立しかない」と。

 

こういう冊子がだされたり、1776年には独立宣言出されます。大陸会議の指示に従って起草してますが、コモンセンスと同じような時期に出されたものでした。

 

ただこの76年の時点で、全然独立するあてはありませんでした。

 

1775年に独立戦争が始まりましたが当然アメリカは不利。7年戦争をやったばっかりでイギリスの軍隊は強いです。

 

イギリスは正規軍とアメリカは寄せ集め軍、国力の差は歴然でした。人口も三倍の差。アメリカ国内には忠誠派が相当程度いて、武力衝突が起こるとイギリスに帰る。戦争に消極的であるという人たちもたくさんいました。

 

実際にアメリカが動員できる軍事力っていうのは本当に小さく、明らかにアメリカは勝ち目がなかったんです。

 

こういう風な状況のもとで出された独立宣言は、アメリカが独立することは必然だ、必要だということを、アメリカの植民地のほかの人たち、あるいは、ヨーロッパのほかの人たち、イギリス以外の地域、国の人たちに対して訴えかけるということとして、大きな意味としてあったとされています。

 

つまり、アメリカは諦めません。私たちは諦めませんっていうそういう主張ですよね。

 

でも覚えておくべきは76年の時点で、アメリカの独立は約束されたわけでもなんでもないということです。

アメリカとフランスで同盟を結ぶ

戦力に差がある場合、基本はゲリラ戦をやります。こんな戦争嫌だというふうに思わせるみたいなやり方はよく用いられますが、アメリカはまさにこの独立戦争のとき、そういうことをしていました。

 

農作業をやっているような人が狙撃用の銃を取って、素早く軍装を整える。そのような戦法をとっていました。

 

しかし、アメリカが不利なことには変わりない、この局面を大きく変えたのがフランスとの同盟関係でした。(1778)

 

1778年のフランスはブルボン朝。

 

アメリカ植民地がどんどん独立して行くみたいなことは、フランスにとって全然嬉しい話でもなんでもありませんでしたが、イギリスが負けるっていうのはフランスにとって決定的に好ましいことでした。

 

ジェファソンに代表されるような愛国派のペイトリオッツの人たち、特に指導的地位を占めていたような人たちは、ヨーロッパ、特にフランスとの関係が深い人が多く、フランスの支持を取り付けるために、いろんな努力をしました。

 

フランスとしても、一部にアメリカに対するシンパシーがあったことは間違いなく、大きく見ればやっぱり基本的にはイギリスが負ける、7年戦争のときにやられた分を取り返すっていう、そういう機会として捉えていたんです。

 

いずれにしても、78年に米仏同盟が結ばれます。

 

スペイン、ロシア、も介入してきて、アメリカ側に肩入れをするか?イギリスに対して敵対的であるということを隠さないあの姿勢をとるか、そういう風な構図が出来上がっていきます。つまり、イギリス対アメリカ植民地という表面上の構図、イギリスとヨーロッパ列強という構図が存在したのです。

 

ここで、フランスの役割を紹介していきましょう。

 

1 戦争を継続して行くための資金。資金、装備は表裏一体。資金供給源。

 

フランスの民間銀行から大陸会議にお金を貸したりするんですよね。

 

こういう風なことをすることによって、本来そんなに長く戦争を続ける能力がないはずだったアメリカ植民地側が、長期間の継戦能力を持つことになるわけですよね。

 

2 植民地軍側に決定的に欠けていた将官の供給。

 

フランスは強力な正規軍を持っていて、そして訓練する仕組みが整っていました。当然、将官もたくさんいるんです。そのうちの一部っていうのはアメリカに共鳴し、義勇軍的な形で来てくれたんですね。

 

以上から、アメリカはお金、装備、統制を手に入れ、戦いが長引けばだんだん兵士として実戦経験を高めていくことになり、また練度の高い将官がくる。軍としての能力が急激に上がって行くんですね。

 

こうなってくるとアメリカはイギリスに対して負けなくなり、優勢になっていきます。

 

最終的には1781年の10月にヨークタウンの戦いで、ジョージ・ワシントンが司令官になってフランスの支援もあって、勝つと言うことになるんです。その結果として、この1781年のヨークタウンの戦いで、実質的にはほぼ戦争は終わりになります。

 

アメリカ勝利、戦後の政治

その後、国際政治的側面で、イギリスとの関係で言うと、1783年9月にパリ講和会議が行われ、パリ講和条約が結ばれます。そして正式にイギリスとアメリカとの戦争が終結。

 

戦争が終わってから講和までに時間がかかるっていうのは別に全然珍しいことじゃないんですね。第二次世界大戦なんか、1945年に戦争終わって講和は6年後ですから。

 

なぜこんなに比較的短い間に講和まで言ったかっていうと、イギリスはアメリカとの戦争状態がいつまでも続いてるっていうのは、結局もう勝てないことが明らかなんだから戦争状態が続けば続くほど、アメリカがフランスに接近をした状態が続きますよね。で、フランスがずっとアメリカに接近した状態になるっていうのは、イギリスにとって望ましいことではなかったわけです。

 

講和の結果、独立が決まったところはニューイングランド、バージニア、など。独立13州に含まれないところも。

 

その後、この1763年のパリ条約によって、アメリカとカナダ(ケベックにはフランス勢力)はつながっているわけですけれど、アメリカが独立して、そこは親仏的な国として独立するっていうことになってしまうと、フランスに近しい勢力によって、おさえられていることになります。

 

7年戦争後のパリ条約の時にイギリスが獲得した領土は、もともとフランス領だったわけなので、フランス系勢力が残っているわけです。フランス語話す人とか、フランスに近しい気持ちを持っている現地の人とかがいっぱいいる。

 

こういうところが、再びフランスの側になびくみたいなことがあると、イギリスにとってはさらにダメージが深まる。そんなことであれば、寛大な講和条件で、アメリカとの戦争を終わらせることがイギリスにとって良い判断でした。

 

具体的な講和条約の内容としては5つ。

1 アメリカの独立をイギリスが承認するイギリス領ではありませんと認める。

 

2 アパラチア山脈より西側で、ミシシッピー川よりも東側、すなわち1763年パリ条約で、フランスから割譲された地域の南半分をアメリカに渡す。

 

アメリカ領であると認める。この地域、つまりアパラチアより西でミシシッピー川の東の地域は、アメリカのこの植民地の人達が開拓したいと考えていた地域でしたから、これは非常に理にかなった解決策ということになりますよね。

 

3 北大西洋におけるアメリカの漁業権を承認。

 

北大西洋地域、特にボストンは、鱈、ニシンがとれる。漁師をしていたアメリカ人はたくさんいた。漁業に携わる人が多い地域。ニューファンドランドの少し南側にある地域も含めて、アメリカが漁業をするということを認める漁業権を認める。こういうことをするんです。

 

4 アメリカ人が負っていた債務をイギリスへ履行する。

 

今度はイギリスが全面的に譲歩したわけじゃないんですね。合衆国政府が強制的に合衆国市民にさせる力は、当時の合衆国政府を持っていませんので、合衆国を構成する各state、つまり植民地がstateという形で、あの半独立になってるんですけど、この各stateに対してそういう立法をするように、合衆国政府として勧告する。

 

合衆国政府自身が、各合衆国市民に対して、そういうふうな戦争以前、あるいは戦争に伴って発生した、イギリス人との債権、債務関係については必ず全部履行するようにっていう風な立法を直接したらいいじゃないかと思うかもしれませんけれども、そういう直接履行を求める立法する権限持ってないんですね。ステイトは無視することができるので。

 

5 アメリカが特に戦争中にイギリス人から没収した土地を返す、または買い取る。

 

義務を履行する手段は、合衆国政府から各旧植民地政府に対して勧告をする仕組みになっていました。旧植民地政府の下に一般市民がいるという構造だったのでm合衆国政府が市民に何らかの義務を課すような立法はできませんでした。

 

このような、めんどくさい仕組みはうまくいかないわけですね。イギリスがアメリカに対して最大限の譲歩、あるいはアメリカが要求していた事の大部分を飲む。

 

イギリスからの独立祝いアパラチア山脈西岸のあの広大な土地。そういう風な立法が条約が結ばれて、そして1783年にいわば国際法的にもアメリカは独立を達成することになりました。

 

独立後の国内

独立戦争をしている時は、1774年の第一回としてずっと、大陸会議繰り返し行われてきました。臨時の中央政府的な役割を果たしてたんです。

 

しかし、こういう政府が作られたからといって、各植民地はそれぞれの植民地政府を持っているわけで、これがなくなったわけではありませんでした。むしろ1776年に独立宣言されて、独立したっていうことになっても、実際そうじゃなかった。

 

各植民地は、この13のState(ステート)に変わります。stateは高度な自立性を持ち、外国との関係は大陸会議が処理をする、と言う形でした。なので、この各stateを半主権国家とかいう言い方をすることもあります。

 

ステートが集まって作られている合衆国は、United statesは、ここはsがちゃんと付いていることからも分かるように、複数のステートが集まってできているからなんですね。つまり最初の合衆国連合規約の合衆国っていうのは複数のステイトから構成される国家連合であるという解釈。

 

機能的に見れば国家連合です。なぜかといえば、対内的に、つまり内政面に関しては、この各ステイトは全くほかのステイトの介入を許していないわけですね。しかし、連合してるとはどういうことかというと、対外関係を一緒に処理しているという意味になります。

 

対外関係の共同処理も、あくまでこの国家連合であるところの、united statesに参加している各stateが、「そうしていい」と言う風に同意した場合においてそうなってるに過ぎないです

 

ほとんどの場合、国家連合というのは上手くいかない。EU(ヨーロッパ連合)は国家連合的ですが、EUの場合にも、結局は、一緒にやれる範囲をどこに定めるかっていうのはなかなかうまくいってないわけです。

 

政治統合といい、経済統合通貨統合、いろんな議論が出てきて、歴史的にいろんな議論してきたんですけど、政治統合はもちろんのこと、通貨統合はやっぱり相当程度容易ではない。

 

今、ユーロ圏があり、相当程度まで近接した軍事同盟としてNATOがあって、それがずっと安定してるのかというと安定してない。ものすごく結束しているみたいに見えるけれど、しかしそれはごくごく最近です。

 

数か月の間にそうなったと言うだけであって、10年間ぐらいっていうのは、ユーロ圏自体がいつまで維持できるだろうかという話を何度も繰り返し話してきているわけですよね。

 

そして、通貨危機であったり、難民危機であったり、いろんな形でそういう問題が起こっている。あるいは、ゆるやかな政治統合としてのEUも加盟国の中に理念に適合してない国もあります。

 

ポーランドとかだって相当グラグラしてたんですよね。本当に民主主義を安定させていけるさせる意思があるかどうかも判然としなかったんです。

 

いずれにしても、国家連合というのは、どこまで自由で、どこまで一緒にやらないといけないかという線引きが紛争、紛議の種になるんですね。しかも、各国家っていうのは自分に都合のいい形での線引きがしたい。

 

いずれにしても1781年に、連合規約を作って、Unitedstatesを作ります。

 

それはまだ国家連合に過ぎなくて必ずしも遠隔に作動するということが約束されているわけでもなんでもない。

 

その間、外交は一緒にやることにしたのですが、内政面に関しては、その各Stateは自律性を保ち続けるわけです。

 

独立戦争中からいわゆる合衆国憲法がつくられる(1776年)。ヴァージニア権利章典。

 

統治機構に関する規定があれば、あってもなくてもいいという類の文章だったわけです。

 

本来は、理由は二つあって、一つは政府のデザインをするところで、政府の権限として何ができるかと言うことを定めてしまえば、書かれてないことはできない。

 

つまり、契約文書として憲法っていうものがあるんだという想定で言うと、そこに書かれていない事は一般市民のそれぞれのなかに留保されているっていうのが基本です。

 

留保されているものはは全部その人の権利。統治機構の部分で政府に何ができるのかということを決めてしまえば、政府にできると書かれていないことは全部一般市民の側に留保されているっていうことになります。

 

もう一つは、権利章典に全部の権利は書けない。まさに権利がそういう性質を持っている。全部書くことができないということは、権利章典にわざわざ並べているのは、人権の重要なものの例示。

 

書かれていない権利は、権利がないっていうのは違います。

 

統治機構のところに書かれている政府の権限のあり方っていうのは。ここに書かれていないことはできません。存在しません。あの政府の権限としては存在しませんという意味で書かれていて、人間の部分っていうのはここに書かれていない権利はいっぱいあるんだけど、大事だからこれだけとりあえず書きますっていう書き方なんです。

 

印紙法というのがありましたね。

 

イギリスで印刷出版の自由とかいうのは犯されるはずがない。それはピューリタン革命をへて、イギリスの国政の中に完全に根付いていたはずの権利だったのに、それがその印紙法によって、抑制された。あるいは強権的諸法を通じて禁圧とまではいかないけれども、常にあの技術的な制限が課せられている。そういう発想が出てくるわけですよね。

 

これを合衆国憲法が引き継いで、最初は統治機構の定めしかないんですけれども、やっぱり権利章典も足しておいた方がいいという判断をして、最初の憲法修正で足す。それがずっとほぼ一体的なものとして扱ってきたということになりますね。

 

れがアメリカから日本など、アメリカ合衆国憲法の影響を受けて作られた各国の憲法に波及して行くわけです。

アメリカの統治構造

 

統治構造が引き継がれつつ、 国王、総督、議会。独立したので、国王という存在がいなくなります。

 

総督自身がもともとは総督はそれが領収植民地だろうが、自治植民地だろうが、国王から任命された存在でした。

 

しかし任命権者がいなくなるわけですから、じゃあ総督は誰が選ぶんですか?という話になり、ほとんどのステートで総督を議会が選任することになります。

 

議会が選任した総督は植民地政府を運営する、行政部門の長としてやっていくわけですが、その任期は短い。議会の言うことを聞かざるをえないと。議会が圧倒的に優越していることが分かりますね。

 

この総督というのは後の知事になります。

 

 

また、選挙権の話もしておきましょう。

 

裕福じゃない人達でも、アメリカ土地は広くて安かったので入手するのは簡単でした。

 

当時は制限選挙(財産制限)でしたが、選挙権は比較的取りやすかったんですね。

 

しかも独立戦争の時に、独立戦争をリードしたのは求人愛国派の中に多かった社会経済的に必ずしも裕福でない人たちでした。

 

この人たちはやっぱり非常に強い正当性を持っていて、「自分たちの力で独立は達成されたんだ」という主張できる立場にありました。

 

しかもこの人たちは、戦争に従事している間は農業ができないですよね。農民であれば農業出来ないでお店をやっている人であれば、商売なかなかうまくいかない。

 

特に初期においてはその分そうなんかも自分で整えるためにお金を出して。なので、経済的な困窮が更に深まっているケースも珍しくなかったんですね。

 

また、大陸会議の下で正規軍として扱われるようになると、一応、大量の兵士の給料が払われているんですが、戦争中は武器とかをたくさん買うために紙幣を乱発するので、戦後になると、インフレが起こります。

 

戦争中にも元々給料も充分じゃないし、充分払われてなかったり、遅れて払われたり、いろんな問題が起こったんですけど、インフレが起こってしまうと、その大陸軍の兵士として従軍していたはずの給料も充分もらえないということになるんです。

 

あまり豊かじゃない人たちは、もともと豊かじゃないし、自分たちが従軍している間に、元々の生活基盤が弱まってしまうし、しかも充分していたことに対する。費用弁償に当たるような給与というのも充分現れていなくて、社会全体が貧困。

 

こういう人たちが持っている政治参加の権力が、この植民地議会に投影されていくことになるんです。

 

すなわち、植民地議会は非常に急進的であり、かつ社会経済的な地位が必ずしも高くない人たちの意向っていうのを受けた、そういう議会になりやすい状況があったんですね。

 

そうなってくると、講和で結んだような対外関係の処理などを議会に要求しても、なかなか同意が得られなくなってきます。イギリスの言うこと聞くなら、なんのために独立したんっていうふうな反応が返ってくるようになるわけですよね。

 

その中で各stateの関係も怪しくなっていくわけです。

 

一つの理由は、イギリスからもらったアパラチア江西の地域をどこのstateに帰属さすべきなのかっていうことが問題。

 

元々別個の植民地だったわけですから、戦争しているときはイギリスからの独立とか、いろんなその共通目標があるんですけど、それが終わった後、じゃあ一体なんで手を組んでいるのかっていうことについて疑問を持つ人たちが出てくるのは当然ですよね。

 

他のステートのことをあんまり考えない姿勢というのも出てきます。

 

その結果として、この連合規約の体制っていうのは、連合規約が相互の硬い友好同盟として、国家連合を形成したにも関わらず、相互の友好はどこにあるのかっていうは、品切れ状態になってしまうんですね。そういう風な状態になってくると国家連合としてのUSはうまくいかない。

 

そうなってくると、連合規約の下で合衆国を維持して行くっていうことそのものが無理なんじゃないかというふうな考えすら出てくることになるわけです。こういう問題に、対してどう対処して行くのかというのが、次の課題になってくるんです。この話はまた次回。

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