⑤【米国建国の父】フェデラリストとは?ハミルトン、マディソン、ジェイについても紹介!

憲法制定会議

連合規約の下、合衆国の運営はなかなかうまくいきませんでした。

 

各ステイトの自律性が強すぎて、連邦がステイト間を調整したり、ステイトに対して強制する権限を持たなかったんですね。

 

そのなかで、各ステイトの内部では、急進愛国派と呼ばれた人たちが力を持つようになります。

 

戦争で活躍した、社会経済的に恵まれていない人が多く、他のステイトの人のことを考えないような、社会秩序を混乱させるような立法をしたりしていました。

 

共和主義的理念で、市民的徳性を持った人が指導者になればいいという考えが強かったので楽観的な秩序観、政治観があったんですね。

 

他方で、アメリカは植民地になるしかない、他の列強の支配下に入るしかないという考えもありました。急進派達は、それはまずいとなって連合規約の改正しようと。

 

ということで、新しい憲法の制定会議が開かれ、そこで一夏をかけて、憲法をつくることになります。

 

フェデラリスト

 

どれだけステイトに自律性、対等性を認めていくのかというのが問題でした。

 

小さなステイトが自律性を保とうとする、ニュージャージー案と、中央政府をつくる、ステイトによって強さが違うので発言力の違いを容認する、ヴァージニアプランが対立。

 

中間に妥協案も沢山出て議論は混迷を極めました。最終的には、87年9月に最終案をつくり、各ステイトで批准をする手続きに入ります。

 

13中9つのステイトが賛成すればよいというルールで、13ステイト全部が賛成するという大枠を変えました。

 

各ステイトで批准に対して賛成をしない(連合規約のままでいい)、改正案が良くない、という意見もありました。

 

このように批准に反対する人達を「アンチフェデラリスト」と呼び、批准推進派であり、連邦政府をつくろうと呼びかけた勢力は「フェデラリスト」と自称しました。

 

批准に進む中で、ニューヨークステイト(商工業が盛んであり、経済力がある。)は合衆国の中心的ステイトであり、批准の鍵でした。

 

そこで、批准推進派の3人の論者がフェデラリストペーパーズを書きます。

 

簡単に言えば、憲法案解説です。ニューヨークの新聞に載せ、世論に訴えかけたんです。アメリカの識字率は高かったので効果はあったとされており、最終的には本となって出版されます。

 

アレクザンダーハミルトン、ジェームズマディソン、ジョンジェイの3名が書き、80編中、ハミルトンがほとんどの稿を書きました。ミュージカルの「ハミルトン」でもここの描写がありますね。興味があったら息抜きに見てみてください。

 

また、マディソンが書いたものも有名です。マディソンが書いた第10編は、公益を追求できる人達が協力して政治をしていくべきだという伝統的な考え方ではなく、部分利益、党派的野心、パーティザンシップがあることは決して悪いことではないというところでした。

 

つまり、他の部分利益の代表者と、競争したり、相互牽制したりすることで、バランスをとっていく、制度的に抑制均衡体制に組み込んでいくのだと。そうすれば大国であっても共和主義は成り立つよねと。

 

伝統的には、考え方が共有された空間でしか共和主義は成り立たない、小国でしか難しいという考え方が一般でした。(共和制ローマ、アテネ)。イタリア、サンマリノは共和制国家(都市国家的でなくても続いている)

 

共和制のイメージは小さい規模のものだったわけです。だから、面積が広くなると、社会経済的にも宗教的にも場合によっては人種とかそういうものを含めて、いろんな相違が社会の中に存在する時に共和制にはなれないと考えられていたんです。

 

それに対してマディソンは、当時の合衆国ぐらいの大きな領域でも、多元的な政治のプロセスっていうのがあれば、その大規模な共和制国家として運営できるんだという議論をしたので、かなり革新的だったんですね。

 

党派性とか党派的野心が、政治のユニットの中で、その政治のユニット全体の利益を最大化するために意味があるんだと。部分利益にすぎないから全体を壊すもんなんだというのが伝統的な考え方です。

 

利益を追求するっていう党派性を持って追求する、複数の党派性が存在しているっていうことは全体としての利益を達成する手段になるんだと。

 

多元的な政治観は、権力の分立であるとか、あるいは複数の政治勢力の間での政権交代であるとかをセットになって初めて成り立つということを議論しました。

 

また、ハミルトンの第78編司法審査権。合衆国憲法には司法審査に関する条文はありません。最高裁を置くと言うことは書いていますが、最高裁が具体的に何をするのかということにあんまり書いてないんです。

 

その合衆国最高裁の下で、その憲法適合性が判断されていくべきだったと、こういうふうな議論が組み立てられています。司法審査権というのが、その実際に実装されるのは、19世紀に入ってからのことですが、少なくともこういう可能性があるんだということは、この時点で示唆していました。先見の明があったとも言えますね。

批准

 

最終的にはその11のステートが1788年までに批准。合衆国憲法が発効しました。批准しなかったのはロードアイランドと、ノースカロライナでしたがそこまで影響力はありませんでした。

 

こうして11のステートが批准をしたことで、合衆国憲法が成立をし、それとともにその今までステートと呼んできた旧植民地は州に変わるわけです。

 

批准を終えて、フェデラリストペーパーは合衆国憲法を理解したり解釈したりするための非常に重要な手がかり、指針になります。

 

同時に、合衆国憲法の中に想定されているような、特に統治構造に関しても、現代の立憲主義を理解するための一つの古典的な思想になっていきます。

 

合衆国憲法の大きな特徴は、権力を集中させないというところにありました。権力を集中させずに、できるだけ分散をしていく。この分散権力を分散させる仕組みについての、理解の一般的な手がかりとしても使われていくことになるわけですよね。

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