みなさんこんにちは。ケイトです。
宋の時代って、北と南に分れたり、なんだか色々面倒ですよね。ってことで、今回は北宋時代について分かりやすく解説していきますよ!
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五代十国時代とは?
唐は節度使の朱全忠によって滅ぼされましたね。
その後朱全忠は「後梁」という国を建てました。次に後唐、そして後晋が建国されます。
後晋の建国の際には、北方の契丹族の国「遼」に援助を受けていました。
その代償として万里の長城よりも南の「燕雲十六州」を譲っていたのですが、これが後々、宋の時代にさまざまな事件の原因となっていくのです。
その後、後漢(こうかん)、後周と、5つの国が興亡していきました。
宋の建国
五代の後周の将軍であった趙匡胤(ちょうきょういん)は、960年に宋(北宋)を建国します。
趙匡胤は、自身は皇帝になる気は無かったのですが、周囲からの人望が厚く、趙匡胤が皇帝になることを望む声が多かったため、就任したと伝えられています。
そのためか宋の政治には他の中国王朝には見られないような制度が見られます。
趙匡胤は、政治面では「文治主義」の立場を取り、軍隊の力ではなく政治や学問の力で国をおさめていこうとした人物です。
節度使を無力化し、皇帝の親衛隊を強化するなど、中央集権の確立に努めました。
宋の都は、開封という黄河と運河の結節点にある都市です。
唐の都である長安や洛陽とは都市としての性格が異なっていて、夜市が開かれたり、自由に商店を開くことができたりと自由な面が多かったんです。
商業の発展があったのが、宋の大きな特徴ですね。
また、開封を描いた『清明上河図』にはそのような開封の気風が垣間見られます。
マジで大事!宋のポイント
宋では、軍事力よりも政治や学問の力が重んじられていました。よって、役人の採用にも力が入れられました。
採用試験の科挙では、最終試験として「殿試」という皇帝との直接面接が加えられ、科挙が強化されました。
この科挙の試験、とても難関であったため、突破できるのはおもに経済力のある新興地主層の人々でした。
貴族に変わって新しく勢力を伸ばしたこのような人々を形勢戸と呼んでいます。
また、北宋では、契丹・西夏など北方民族の圧迫を受け、また集権的な軍政を取っていたため、防衛費の増大による国家財政の窮乏が常に大きな問題でした。官僚を多く抱えたことも財政難の原因ですよ。
国内の政治抗争はその対策が焦点となっていきます。
11世紀後半の神宗は、王安石を宰相に起用して政治の根本的改革を図りました。
宋王朝の財政再建と富国強兵を目指し、さまざまな「新法」と呼ばれる法をつくっていきます。
この改革によって一時的に宋の財政は回復しましたが、財政難の解消には至らず、保守派の反対も強まったため、1076年には王安石は宰相を辞任し、改革は失敗に終わりました。
靖康の変
靖康の変とは、1127年、金軍が宋(北宋)の都開封を占領し、宋の上皇(前皇帝)徽宗・皇帝欽宗などを捕らえ、拉致したことを言います。
金というのは北方にいた民族のことですね。
結局宋は、莫大なお金を払うという選択をしますが、宋が金と連携して遼を滅亡させたのち、お金が払えなくなった宋の約束違反を理由に、金軍が南下して、開封が陥落しました。
宋の滅亡は、宋が軍事力よりも学問の力を重んじる国だったことが大きく関係していること、そして周辺諸国との平和をカネによって解決しようとしていたことが大きく関わっていると言えるでしょう。
この靖康の変の結果、北宋は滅亡し、生き残った者が南部で南宋を建国します。
宋の社会と経済とは?
宋の首都開封では、爆発的に商業が発展しました。もう唐とは比べものにならないレベルで。
開封は黄河と大運河の結節点にある都市なので、物資の行き交う商業・経済都市として繁栄していきました。
この点が洛陽や長安など従来の全国統治を目的とした政治・軍事都市と異なる点といえます。
唐末期以降、商業に対する規制が緩み、都市の中で商業活動が活発に行われるようになりました。
開封だけでなく城壁の外や交通の要地に「草市・鎮」などと呼ばれる商業の中心地ができました。
そのため商品流通はますます大規模になり、行・作などの同業組合もうまれていきました。ヨーロッパのギルドみたいな感じですね!
貨幣経済も発展し、莫大な量の銅銭が鋳造され、その一部は大量に日本にも流入しました。
また、手形として北宋の交子・南宋の会子といった紙幣が使用されました。
交子は世界初の紙幣とされています。
紙幣経済が進むなかで富裕になった人々は土地を買い占めて地主となりました。収穫量の半分程度にあたる小作料をとって佃戸に耕作させることが一般的になりました。
これを佃戸制といいます。半分ってなかなかですよね。
南宋の時代になると、江南の開発が進んでいきました。
湿地帯の土地を堤防でかこんでつくられた囲田が開発され、日照りに強い稲である占城米が導入されるなど、長江下流域が農業の中心となっていきました。
これを表した言葉として、「蘇湖熟すれば天下足る」というものがあります。これらはよく試験にでます。押さえておいて下さい。
また、宋の時代には手工業も発達しました。
喫茶の習慣が定着するなかで陶磁器が発達し、江西省の景徳鎮が世界的な陶磁器の生産地になりました。景徳鎮は現在でも陶磁器の産地として有名です。
英語でも陶磁器はchinaって言いますよね。あっ景徳鎮は試験に頻出ですよ!
宋の文化まとめ
みんなあんまり得意ではない文化史。しっかりマスターしていきましょう!
朱子学
唐代までは門閥の貴族が中心となって文化が形成されていましたね。しかし、宋代の文化の担い手は士大夫という人々でした。
士大夫とは形勢戸の中で、儒学の教養を持った知識人たちのことです。要するに頭のいい人!
彼らは血統重視の貴族文化から能力を重視する文化への変化に貢献していきました。
そのなかでも儒学は最も重要な位置を占めていました。
経典のなかの一つ一つの字句の解釈を重んずる訓詁学にかわって、経典全体を哲学的に読み込んで宇宙にあるすべてのものの正しい本質(これを理と呼ぶ)にいたろう、とする宋学が生まれていきました。
大事なのはこの世の真理だ!という訳ですね。
この訓詁学と宋学の違いについても要チェックです!
北宋の周敦頤が著した『太極図説』に始まり、南宋の朱熹が大成していきました。
その朱子(朱熹)からとって、宋学は一般的には朱子学ともいわれています。宋学=朱子学ですね。
シュシュシュ!って私は覚えてましたね。(しゅうとんい、しゅき、しゅしがくの頭文字)
朱子学では五経よりも四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)が重んじられています。
大学(大学)
中庸(中よ)
孟子(もう)
論語(老後)
そんな朱子学の成立は、中国思想の中でも異質で革新的なもので、仏教・道教と並ぶ巨大な世界観を確立したことを意味しているといえます。
これは、朝鮮および日本を含む東アジアに影響を与え、儒教文化圏を形成することとなります。
また、宋学(朱子学)を支えたのが、経済的余裕を勉学に充て、科挙に合格して官僚となることのできた新興地主階級である士大夫でした。
士大夫と朱子学のあいだには、密接な関係があるということです。
朱子学の主な学説としては大きく大義名分論と華夷の別を押さえておきましょう。
大義名分論は、司馬光が著した『資治通鑑』において論じた歴史論でよく表されています。簡単に言えば、君主の統治に役立とう!という理念。
孔子は家族の親和、君臣の信頼関係を重視しましたが、朱子学においては人間関係の本質は、上下関係・君臣関係を守ることにあるという考え方になり、為政者にとって秩序維持に必要な理念として説かれるようになりました。捉え方で大分変わるもんですね。
また朝鮮、特に日本に伝えられた朱子学はその面だけが強調され、江戸幕府の統治理念とされました。
しかし、大義名分論は幕末になると、反幕府勢力により、尊王攘夷論の根拠・背景とされ、倒幕の理念となるという二面性があったことも知っていて損はないでしょう。
また、華夷の別では文化の本質は中国(中華)にあって、それ以外の文化は程度の低い「夷」であるとされました。中国は世界の中心というような考え方ですね。
文学
次に文学を見てみましょう。文学面では唐に引き続き、古文復興運動が盛んでした。
欧陽脩・蘇軾らが出現し、唐代の文学者と合わせて「唐宋八大家」と呼ばれています。また、宋代には庶民文学として「詞」が流行していきました。
音楽に合わせて歌うという概念が登場したのがこの時代です。歌の歴史って1000年くらいなんですね。なんかびっくり。
絵画
絵画では、宮廷文化と士大夫文化がどちらも盛んでした。
宮廷では院体画が盛んでした。豪華で写実的な絵です。
作品としては徽宗の『桃鳩図』が特に有名です。徽宗は政治面というよりは、芸術面でとても才能のあった皇帝です。
士大夫の間ではシンプルな文人画が盛んで、『墨竹図』などの水墨画が多い傾向にあります。
三大発明
最後に中国の三大発明を見てみましょう。宋代には羅針盤・火薬・活版印刷の三大発明。要暗記です。
これらは、どれも中国の長い文化、技術の継承を基盤として、この時代の生産力の発展、経済の成長が要因となって興った技術の革新と考えられています。
ヨーロッパに先立ってこのような技術革新が成されていたことに注意して学習すると世界の歴史を眺めるときにも役立つでしょう。
まとめ
いかがでしたか?
宋について解説しました。ぜひ理解に役立ててください!
それではまた会いましょう!
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