どうも!ケイトです。
今回は普仏戦争(1870)ってなんぞや、、、というお話をしていきます。その後のパリコミューン、第三共和政についても分かりやすく解説していきますので、ぜひお読み下さい。
Contents
発端
原因
原因 スペイン王位継承問題
この戦争は名前の通り、プロイセン(普)とフランス(仏)の戦いです。当時のリーダーは、プロイセンではビスマルク。フランスではナポレオン3世という人物。
この2人が何で争ったかというと、スペイン王位継承問題でした。
プロイセン、フランスと来て、なぜスペインの王位継承問題なのか、詳しく見ていきましょう。
フランスのお隣であるスペインでは、国内で起こった革命(スペイン九月革命)が原因で、王位につく人がいなくなってしまいました。
これを見たプロイセンのビスマルクは、「僕もカトリック信者なんよ!」と、プロイセンのホーエンツォレルン家の、分家である「ジグマリンゲン家」という家系の王子レオポルトくん(王位継承者の候補でした)を説得します。
レオポルト本人は全く乗り気ではなかったらしいですが、ここはビスマルクの交渉術。この強く、上手い説得でスペインの了承も勝ち得て、スペインの王位を継ぐ権利を手に入れてしまいます。
プロイセンもスペインも、ホーエンツォレルン家の血筋。ビスマルクが王になること自体は変ではありません。
しかし、プロイセンがスペインを手に入れるのを気に入らなかった国がありました。それが、フランスです。
フランスというのは、スペインとプロイセンの間に位置しており、挟まれている形です。ここでスペインがプロイセンの息のかかった国になってしまうとどうでしょう。オセロのように挟み撃ちにされてしまうことが分かりますよね。
実際16世紀にも、スペインの王であったカルロス1世が、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世となって、フランスに脅威を与えたことがありました。イタリアを戦場に、50年以上フランスと神聖ローマ帝国で戦争が展開しましたよね。(イタリア戦争)
そこでフランスのナポレオン3世は、プロイセンの王であるヴィルヘルム1世に大使を送り、スペインとの交渉はなしにするように迫りました。
開戦
この戦争の発端は、スペインの王位継承問題だという説明をしてきましたが、実はもう一つあります。プロイセンによるフランスへの復讐です。(この側面の方がこの戦争の発端として強いという説もあります)
フランスのナポレオン時代、ナポレオンはこれでもかというほど、領土を征服していったことはご存知ですね。
プロイセンは領土を広げ、影響力を大きくする機会を邪魔されたので、まあめちゃくちゃキレていたわけです。
そこで、ナポレオン時代のフランスに復讐し、ドイツ統一の主導権を握ろうとしたプロイセンのビスマルク。
ではどのようにしてフランスに戦争をふっかけたのでしょうか。
1870年の会談。フランスの大使がプロイセンのヴィルヘルム1世に、「スペインとの話はナシにしてください。レオポルトが王になるのも、あなたが介入するのもダメ。お願いね。」と頼みに行きました。
プロイセンのヴィルヘルム1世は拒否することで会談は終わりましたが、戦争の発端はこれではありません。このあとの大事件が原因です。
ビスマルクは会談での出来事を聞いたあと、故意に筋書きを書き換えて公表しました。
「フランス大使がプロイセン王を脅した。ヴィルヘルム1世はそれを断固として拒否した。我らの王は素晴らしい。一方あの国は卑劣だ。」と。
いやあ大胆な情報操作。卑劣ですね。
当然そういう風に報道を聞いた、プロイセン側はもちろん、「フランスを倒せ!」、フランス側でも、「卑怯なプロイセンを倒せ!」という声が上がりました。(エムス電報事件)
そして、フランスが反プロイセンの世論に押されて、宣戦布告。これが1870年プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)の始まりです。
これは全部ビスマルクの作戦。フランスを挑発し、自分の国の強大な軍隊で、ボッコボコにしてやろうという、、、。
結果
結果
フランスとの戦争となり、プロイセン側には他のドイツ諸国もプロイセン軍に加わり、全ドイツとフランスという形になったため、この戦争は独仏戦争とも呼ばれます。
結果は、圧倒的軍事力を持つプロイセンが圧勝という形で幕を閉じます。フランスのナポレオン3世は捕虜となり、失脚しました。
パリコミューン
ついでいフランスの体制についても学習しておきましょう。
戦争に敗れると、フランスではパリで蜂起が起こり、これまでの鬱積を爆発させるように、人々は帝政を崩壊させます。(第二帝政の崩壊)そして、臨時国防政府が成立しました。
抗戦を続けた政府がプロイセン軍にようやく降伏すると、屈辱的な講和を結ばされる時間がやってきます。
講話内容は50億フランの賠償金と、アルザス・ロレーヌを割譲すること。
その講和内容に反対したフランスの社会主義者や民衆は、臨時政府に対抗して、革命自治政府をつくりました
この革命自治政府のことを、「パリコミューン」と呼びます。世界史初の民衆がつくった政府でしたが、パリコミューンはフランス内で孤立。臨時政府は、ティエールという指導者のもと、軍事力を使ってパリコミューンを潰します。
その後、フランスは予定より早くプロイセンへの賠償金を完済。国内では、王政か共和制にするかでもめましたが、敗戦から4年後、ようやく共和国憲法が制定され、フランスは第三共和政となりました。
フランスでの革命の変遷を復習したい方はこちら↓
その他のヨーロッパ諸国
フランスとプロイセンがバチバチにやっていたころ、イギリスのグラッドストンは不介入の姿勢で傍観していました。
またフランスが敗れ、イタリアに駐留していたフランス軍が撤退し、イタリア統一が進みました。
みんなが普仏戦争に釘付けだった頃、イギリスが動かないの横目にロシアのアレクサンドル2世は、バルカンへの進出を目指して南下政策をすすめます。露土戦争(1877)が起こったのはその頃。その後イギリスやオーストリアが介入してきたベルリン会議についても、以下の記事で学習しておきましょう。
まとめ
まとめると、情報操作っていつの時代にもあるんだね。
ではまた。
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