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【世界一分かりやすい】ベルリン会議はいくつある?1878・1884の違いを解説!

 

どうも!ケイトです。

 

ベルリン会議って世界史の教科書の中に何回出てくるか分かりますか?

 

答えは2回です。

 

じゃあ、その2回の違いは説明できますか?ということで、今回は1878年のベルリン会議、1884年のベルリン会議について解説していきます!

 

1878ベルリン会議

露土戦争を復習しよう

1878年のベルリン会議は、プロイセンのビスマルクが開催したものです。内容としては、露土戦争後の調停会議です。

 

露土戦争はロシアとトルコが戦った戦争でしたね。この時のロシアの目的としては、南下をして不凍港を手に入れることでした。トルコに難癖をつけて、戦争をふっかけたワケです。

 

結果的には、ロシアが勝利して、サン=ステファノ条約を結び、多くの領土を手に入れて、夢である南下政策へ一歩踏み出しました。

 

戦争を防ぐためのベルリン会議?

 

しかし、これを気に入らない国がいくつかありました。それがイギリスと、オーストリア=ハンガリー帝国の2国です。

 

イギリスは、「ロシアがこれからもっと勢力を拡大して、東地中海やもっといえば西アジアも進出してくるのではないか」とビビり、

 

オーストリア=ハンガリー帝国は「バルカン半島まで進出してきたらどうしよう。戦争になって征服されるのでは?」と反発したのです。

 

でも、戦争による講和によって、この時代としては正当に領土を手に入れているので、これに直接反対すると、大国であるロシアと戦争になってしまうことは避けられません。

 

ここで、彼らの救世主のように現れたのが、プロイセンのビスマルクです。彼はフランスを陥れて戦争に持ち込んだり、戦争に勝ちまくったりな凄腕の外相でしたよね。

普仏戦争を分かりやすく!パリコミューン、第三共和政とは?

 

彼は「公正な仲介人」の立場をとると言って、ベルリンにオーストリア=ハンガリー帝国、イギリス、オスマン帝国、ドイツ、フランス、イタリアを集めて、調停会議を開きました。

 

ビスマルクのこの時の狙いとしては、ヨーロッパのパワーバランスを崩さないためでした。

 

この時代のヨーロッパは、パワーバランスを保って(勢力均衡)、平和を維持していました。少しでも、どこかの国が強くなったり、弱くなったりすると、戦争になってしまいます。

 

 

また、この時期は、主にプロイセンとロシアが、パンゲルマン主義とパンスラヴ主義などを掲げて、それぞれが同盟関係を作り、そのパワーバランスを上手く保っていた時でした。

 

ビスマルクにとって、頑張って築いた同盟関係やバランスが、崩れて欲しくないわけです。

 

一番良いのは現状維持ですが、列強同士が激しく対立したり、ロシアが狙っているバルカン半島が、どこかの国のものになったりでもしたら、一気にバランスが崩れてしまうんですよね。

 

パンゲルマン主義とパンスラヴ主義は何が違うの?!

 

そこでプロイセンのビスマルクは、対立している国々の間に入って、自らの同盟体制や平和を維持することにします。

 

とりあえず、ロシア、オーストリアとイギリスなどの列強各国に、オスマン帝国の領土を割り当てて満足してもらうという調停を行いました。

 

また、「私はバルカン半島には興味がない。みんなのためだよ。」と言って、信頼を勝ち取り、そして平和を維持したということから、自身の国際的な評価も上げました。

 

なんて頭がいいんだ。

ベルリン条約の内容

 

ちなみに、ベルリン条約の内容としては、

ルーマニア、セルビア、モンテネグロの三国のオスマン帝国からの独立

・ブルガリアは自治国に。領土は3分の1でオスマン帝国が宗主国

・ロシアはベッサラビアだけゲット

・オーストリアはオスマン帝国が持っていた、ボスニア・ヘルツェゴヴィナをゲットした

・イギリスはオスマン帝国のキプロス島の統治権をゲットした

 

こんな感じです。

 

ロシアが戦争に勝ったのに、オーストリアやイギリスが領土を獲得して、ロシアはほとんど何も入らないというおかしな状態になっていはいますが、ドイツの思惑からすると、こうなって当然ですかね。

 

他方、ロシアはドイツに不信感を募らせました。

 

一番はもっとも南下政策の足がかりになったブルガリアが縮小され、南下できなくなったこと。また、イギリスがキプロスを手に入れたことで、東地中海にも行けなくなりました

 

ビスマルクが引退した後、ロシアは完全にプロイセンを信じなくなり、フランスと手を結びました。(露仏同盟

 

しかし、ロシア、イギリス、オーストリア間での大戦争は防げたので、その点に関してはこの会議には意義があります。

 

1884ベルリン会議

1884年のベルリン会議は、これもビスマルクが開催した会議です。

 

議題としては、ベルギーがコンゴを手に入れて良いものか、でした。ですので、別名コンゴ会議とも言われます。

 

また、14カ国が会議に参加し、アフリカをヨーロッパの国でどうやって分けるか、ということを話し張ったのです。

 

この会議の結果として、ベルギーのレオポルド2世はコンゴを所有することを認められました。ベルギーはコンゴ自由国として、領土を私有することになります。

 

さらに、アフリカの支配に関してのルールが決められます。これによってアフリカの分割が進んでいくのです。

 

アフリカの領土を占有する時の原則としては、

・最初に支配した国が支配権を持つ

・現地でのヨーロッパ人の通商や交易を保障することの2つでした。

 

アフリカの人々の意志は関係なく、早い者勝ち競争で、一番始めに支配した国が占有できる。そして、現地でヨーロッパの人々がきっちり商売できるのであれば、支配ができる、ということでした。

 

この原則を元に列強同士が勝手に争い、ヨーロッパ人はアフリカを支配していきました。

 

定規で線を引くように国境を決めたため民族間での争いが堪えなくなり、今もそれが続いています。

 

まとめ

 

いかがでしたか?2回のベルリン会議を解説しました。

 

同じ名前だけど別物でしたね。しっかり復習して得点につなげましょう!

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