どうも!ケイトです。
今回は普仏戦争ってなんぞや、、、というお話をしていきます。その後のパリコミューン、第三共和政についても分かりやすく解説していきますので、ぜひお読み下さい。
Contents
発端

きっかけ
一番大事な要素である戦争の発端、きっかけですね。
この戦争は名前の通り、フランスと、プロイセンの戦いです。当時のリーダーとしては、ナポレオン3世とビスマルクでした。
フランスのナポレオン3世と、プロイセンのビスマルク。どちらも吐くほど重要な2人です。
この2人が何で争ったかというと、スペイン王位継承問題でした。
スペイン王位継承問題
フランスのお隣であるスペインで、国内で起こった革命のおかげで、王位につく人がいなくなってしまいました。
これを見た、プロイセンのビスマルクは、自分も「カトリックだから」とかなんとか言い、上手い交渉でスペインの了承も得て、スペインの王位を手に入れてしまいます。
まあでも、プロイセンもスペインも、ホーエンツォレルン家の血筋なので、手に入れてもおかしくありません。
しかし、プロイセンがスペインを手に入れるのを気に入らなかった国がありました。それが、フランスです。
地図を見てみると、フランスがスペインとプロイセンに挟まれています。確かに挟み撃ちは嫌ですね~。
そこでナポレオン3世は、プロイセンの王であるヴィルヘルム1世に大使を送り、スペインとの交渉はなしにするように迫りました。
開戦
この戦争の発端のもう一つの一面として、面白いものがあります。それが、プロイセンのフランスへの復讐です。

領土を広げ、影響力を大きくする機会を邪魔されたので、まあめちゃくちゃキレていたわけです。
そしてこの復讐の際の、プロイセンがフランスを陥れるまでのビスマルクが手腕がお見事なのです。
実際は、フランスの大使がプロイセンのヴィルヘルム1世に、「スペインとの話はナシにしてください」と頼み、プロイセンのヴィルヘルム1世が「OK」といって、この問題を終わらしていました。
しかし、ビスマルクはこの筋書きを書き換えます。
このニュースを国民に伝える際に、「フランス大使がプロイセン王を脅した。ヴィルヘルム1世はそれを断固として拒否した。我らの王は素晴らしい。一方あの国は卑劣だ。」という内容で、情報を操作して発表したのです。
こういうことはどこの国の報道局もやっているので、責めれないですね~。
さて、そういう風に報道を聞いた、双方の反応はというと、プロイセン側はもちろん、「フランスを倒せ!」、フランス側でも、「卑怯なプロイセンを倒せ!」という声が上がりました。
そして、フランスが反プロイセンの世論に押されて、宣戦布告しました。これがプロイセン=フランス戦争の始まりです。
しかし、これは全部ビスマルクの作戦なんです。フランスを挑発し、自分の国の強大な軍隊で、ボッコボコにしてやろうという、、、。
結果

結果
結果はもちろん、圧倒的軍事力を持つプロイセンが、圧勝しました。フランスのナポレオン3世は捕虜となり、失脚しました。
パリコミューン
戦いに敗れると、フランスではパリで蜂起が起こり、これまでの鬱積を爆発させるように、人々は帝政を崩壊させます。そして、臨時国防政府が成立しました。
抗戦を続けた政府がプロイセン軍にようやく降伏すると、屈辱的な講和を結ばされる時間がやってきます。
その講和内容に反対したフランスの社会主義者や民衆は、臨時政府に対抗して、革命自治政府をつくります。
この革命自治政府のことを、「パリコミューン」と呼びます。世界史初の民衆がつくった政府でした。
しかし、パリコミューンはフランス内で孤立していて、臨時政府は、ティエールという指導者のもと、軍事力を使ってパリコミューンを倒してしまいました。
その後、フランスは予定より早くプロイセンへの賠償金を完済し、国内では、王政か共和制にするかでもめました。
そして、敗戦から4年後、共和国憲法が制定され、フランスは第三共和政となりました。
フランスでの革命の変遷を復習したい方はこちら↓
まとめ
いかがでしたか?
普仏戦争の解説でした。ビスマルクの作戦はお見事でしたね。
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それでは!
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