みなさんこんにちは。ケイトです。
今回はイギリスの模範議会とフランスの三部会の違いについて解説していきたいと思います!
Contents
今日のポイント
模範議会→イギリス、マグナカルタを守らなかった王に対抗して作られた議会
三部会→フランス、聖職者、貴族、平民の代表者が出席する議会
模範議会

ノルマン朝
第二次大移動後、ノルマン朝がウィリアム1世の征服によって建てられましたよね。ちょっと復習しましょう。
当時イングランドにはゲルマン人の移動の結果、アングロサクソン王国がありました。七王国という名前でしたが、七王国の一つ、ウェセックスの王様、エグバードが統一しました。
この国もノルマン人の侵入に悩まされました。一時アルフレッド大王が撃退しましたが、デンマーク地方のノルマン人、デーン人の王、クヌートに征服されてしまいました。
その後、形勢を逆転させ、アングロサクソン系の王家が復活し、ノルマン人を撃退したかと思いきや、ノルマンディー公のウィリアムがイングランドを征服します。(ノルマンコンクェスト)
ちなみに、ウィリアムとアングロサクソンの戦いをヘースティングズの戦いといいます。彼はウィリアム1世として即位します。
その後の王様はウィリアムの血筋です。イギリス王家は1000年くらい続いているのですね。
まとめると(ゲルマン➢赤、ノルマン➢青)
エグバードが統一
アルフレッド大王が撃退
クヌートに征服
アングロサクソン系の王家が復活
ノルマンディー公のウィリアムがイングランドを征服
マグナカルタ
次の王朝のプランタジネット朝の初代の王様、ヘンリ2世はフランス人の血が入っていました。彼は凄腕で、フランスの西半分を領有するほどでした。
ところがバットだがしかし、そんなヘンリ2世の息子ジョンはとてつもなく評判が悪い王でした。
ヘンリ2世の後、ジョンの兄貴、リチャード1世が跡を継ぎます。
彼は知っての通り、十字軍で戦いに行ったりするなど勇敢な王でした。残念ながら、彼が戦死すると弟のジョンが王位を継ぎます。
ジョンは、フランスの国王、フィリップ2世と領土争いを始めますが、あっさり敗北し、フランスの領地をことごとく失っていきます。
また、インノケンティウス3世とも、司教の任命を巡って争い、最終的に破門されます。
しかも政治が下手くそで財政難に陥り、重税を課したために、貴族の反感を買います。
怒った貴族は力を合わせて、ジョンに立ち向かいました。「ジョンに好き勝手させないようにしよう!」と。
そこで彼らは「課税のためには聖職者と貴族の会議での承認が必要であること」などを書いた、マグナカルタを認めさせます。
このマグナカルタというのは、今で言う憲法のようなものです。
憲法というのは国民が公権力を抑制するため文書です。イギリスではマグナカルタで王権を抑制したわけです。
イギリスの立憲政治はマグナカルタが基礎になっています。ちなみにジョンという名前は、今でもイギリスで人気がありません。
模範議会

ジョンの次の王、ヘンリ3世はなんとマグナカルタを無視。ここで、シモン=ド=モンフォールという貴族の1人が反乱を起こします。
そして見事に王を破ってしまいます。
シモンドモンフォールはその勢いで、貴族と聖職者の会議に、州と都市の代表を加えて、課税の話だけでなく、国政の話もするようになりました。
これがイギリス議会の始まりになっています。
ヘンリ3世の次の王、エドワード1世はこの会議を利用しようと、模範議会を招集しました。議会は王に対するものだったのですが、逆に王が議会を招集したのです。
王が主導する議会なんて、、、、と思いますが、意外にも14世紀の半ばには、もっと発展して聖職者や貴族が属す上院、州や都市の代表が属す下院にわかれ、法律の制定や課税の際には下院の承認が必要になりました。
また、火薬の登場で没落した騎士は、地方のジェントリ(郷紳)になり、州の代表として下院に属していました。
ジェントリとは、簡単に言えば地主です。
貴族ではないのですが、貴族で言えば男爵の下くらいの地位で、それなりに金持ちでエリートでした。
慈善活動をしたり、無給で仕事を引き受けたりなど、高潔な人々で、ジェントルマンという一種のエリート層を形成しました。
三部会

フィリップ4世とアナーニ事件
三部会を始めて開いたのは、フィリップ4世でした。フィリップ4世って誰やと思った人は、復習しておきましょう。
彼は、教皇ボニファティウス8世を拉致監禁しその後憤死させた王様です。(アナーニ事件)
教皇の信頼失墜

教皇権が衰退していった原因は覚えていますか?
え?忘れた?
復習はこまめにすると、内容がどんどん入ってきますよ。答えを言いますと、十字軍の失敗ですね。
十字軍の失敗で教皇は半端なく信用を失いました。
同時に十字軍を指揮し勇敢に戦った王様の力が強くなっていったことで、王様が国を統制できるようになり、教皇様はどんどん力を失っていくのです。
十字軍も終わり、信頼が失われてから13世紀末に教皇になったのが、ボニファティウス8世という人物です。
もうこの頃には王様がリーダーシップを発揮して国をまとめ、聖職者に対しても税金をとるようになりました。
しかし彼は今までの教皇権が忘れられず、
「教皇は絶対だ!聖職者なのになんで税金を払わなきゃいけないんだ!」
と英国、フランスの国王に抗議します。
もう必死ですね。
そして14世紀に入りたてのあるとき、事件が起こります。
教皇 拉致られる
ボニファティウス8世がアナーニに滞在中、なんと襲撃を受け、捕まってフランスに連行されてしまうのです。
簡単に言えば、拉致ですね。
しかも、この拉致計画を命令したのはフランスの国王、フィリップ4世でした。
彼はずっと教皇の態度が嫌でなんとかしたいと思っていましたが、自分で一人ではどうしようもありませんでした。
そこで、議会を開いて「教皇シメたいんやけどどう思う?」と聞くのです。
賛同を得たフィリップは着々と準備を進め、教皇がアナーニに出かけたタイミングで拉致を実行させました。
拉致された教皇は3日間監禁されました。
釈放された後、教皇はローマに戻ってこれましたが、屈辱を受けた彼は、その年に急逝しました。実際は高齢と不摂生が死因だそうですが、屈辱のもとでの彼の死を人々は「憤死」と表現しています。
アナーニ事件のあと、フィリップ4世は教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し、その後70年間フランス王の支配下におきました。この出来事を「教皇のバビロン捕囚」といわれます。
三部会「うざいじじいをやっつけていい?」
ここまでをまとめると、フランスのフィリップ4世が
「あのじじい、クソうぜえ!」
どうにかして黙らせたい、やっつけたい、と思い、何か行動を起こすことについて、国民の意見を聞いてみようと思い立った結果できた議会が三部会でした。
彼は、聖職者、貴族、平民の3つの身分の人々からそれぞれ代表者を選び、彼らを集めて集会を開きました。
うざい教皇をやっつけていいか聞くための会議だったわけです。
フィリップ4世はこの三部会で賛同を受け、アナーニ事件へ駒を進めていくことになったわけです。三部会は、フランス革命初期頃まで続きました。
今日のポイント
模範議会→イギリス、マグナカルタを守らなかった王に対抗して作られた議会
三部会→フランス、聖職者、貴族、平民の代表者が出席する議会
まとめ
いかがでしたか?イギリスの議会について解説しました。今後の理解にも大切なので、しっかり頭に入れておいて下さいね。
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それではまた会いましょう!
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