イランイラク戦争と湾岸戦争、イラク戦争の違いって?

 

どうも!ケイトです。

 

現代史の勉強は中々手薄になりがちですが、いかがですか?今回は、イランイラク戦争と湾岸戦争、イラク戦争について解説していきたいと思います!

Contents

イランイラク戦争

まずは、イランイラク戦争から解説していきましょう。

パフレヴィー2世

戦争の話をする前に、イラン革命のお話をしなければなりません。

 

イランは、第二次世界大戦中、ずっと中立の立場をとっていました。しかし、結局米ソ軍がイランに基地をつくることを許してしまったために、戦後に彼らが居座ることにになってしまいました。

 

 

イランでは石油の輸出による収入が大きかったのですが、イギリスの企業がイラン産の石油を独占するようになり、イラン人に不満が溜まります。

 

いい加減にしろや!もうその企業国有化してまえ!」と。

 

1951年に政権について、モサデグという人物は、国民の意思通り国有化します。しかし、

 

「あのイギリスを敵に回したらヤバイやろ、、、」と思っていた人物がいました。それが、パフレヴィー2世です。

 

彼は、クーデターを起こしてモサデグを追放。彼がトップに立ちます。

 

イラン革命

イギリスと仲良くやりたいパフレヴィー2世は、イランにおいて近代化政策を進めていきます。それが、1963年から行われる白色革命です。

 

しかしこれには反対派が死ぬほど多かったんです。しかも、イラン人が嫌いなイギリスと、王は仲良くやろうとし、さらにイギリス色にイランを染めようとするのです。

 

ってことで、国民の堪忍袋の緒が切れまして、宗教指導者ホメイニが革命を起こします。はい、これがイラン革命ですね。1979年です。

 

その結果、イラン=イスラーム共和国が成立します。

 

ただ、これによって、親イギリスだった国王がいなくなってしまったわけです。これまでイランがイギリスと仲良かったから、イランを支援してきたアメリカは、「イギリスと仲良くしないんだったらもう助けてあげないんだからね!」と怒り、イランとアメリカは対立していきます。

 

イランイラク戦争

さて、ここまでイランのお話だったわけですが、ここからイラクもお話に絡めていきます。

 

イラクでは、サダム=フセインが大統領です。ところで、イランとイラク、国民が主に信仰していたのはどの宗教のどの派ですか?

 

そうですね。鋭いです。

 

シーア派ですね。

 

つまり、イランでは、シーア派の国民が革命を起こして国王を追い落とした形になります。これを見ていたイラクのサダム=フセインは、こう思います。

 

こっちに波及してきたらヤバくね?」と

 

なぜなら、彼自身はスンナ派でシーア派の国民を弾圧していたからでした。

 

革命の構造は違えど、抑圧されてきたシーア派のイラク人が、「イランのシーア派が革命成功したから、俺/私達もやろう」と思う可能性は高いわけです。

 

ということで、サダム=フセインは、国境がなんだかんだと理由をつけ、イランの革命がこっちに波及しないように、イランに戦争をしかけます。

 

そうです。これが、イランイラク戦争ですね。1980年です。

 

湾岸戦争

イランイラク戦争が分かったらもうあとは仕上げです。そう、

 

湾岸戦争

 

湾岸戦争は、1991年に、クウェートに侵攻したイラクに対しアメリカ軍主体の多国籍軍が攻撃をくわえた戦争です。

 

イラクは、豊富な石油資源を握る王族が支配する首長制国家であるクウェートという場所を自分のものやー!と主張して、無理矢理侵攻します。

 

さすがにこれは国際法違反だし、冷戦も終わりがけで平和を保ちたい、ということで、アメリカを中心に多国籍軍が編成されます。

 

安保理はイラク軍に対し撤退勧告を行い、さらに経済制裁を決定します。逆に言えば、撤退すれば攻撃しないよ、と。

 

しかし、イラクは全く応じず、多国籍軍はやむなく攻撃します。

 

最強の軍に攻撃されたらひとたまりもなく、イラクは敗北。イラク軍はクウェートから撤退します。イラクは多国籍軍の監視下におかれ、厳しい経済制裁下におかれることとなります。

 

しかし、サダム=フセイン政権は存続します。

 

これは、イランイラク戦争の時に、アメリカがサダム=フセインを支援していたからだと言われています。

 

なぜなら、シーア派の原理主義が暴走して、大使館で人質事件を起こったりもあって、アメリカは反英米なイランを嫌っていたからです。そして、シーア派を抑圧しているサダム=フセインを、支援し始めたわけです。

 

これがレーガン大統領の時代。

 

その後、パパの方のブッシュが大統領になり、冷戦も終わりがけってことで、イラクの勝手を許さず、湾岸戦争に踏み切るわけですが、わざわざサダム=フセイン政権を存続させたのは、アメリカがイラクを支援していた過去に負い目があったからです。

 

イラク戦争

対テロ戦争

 

湾岸戦争のあと、アメリカはイラク付近に駐留し、パレスチナ問題も未解決の状態でした。

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イスラームの急進派では、アメリカ嫌い、アメリカと仲の良い政権嫌い、という感情が高まっていきます。

 

2001年9月11日、みなさんご存知同時多発テロが発生します。

 

息子の方のブッシュ大統領は、アフガニスタンのターリバーン政権の保護下にある、イスラーム急進派組織「アル=カーイダ」がテロの首謀者であるとします。

 

そうして、アメリカはアフガニスタンに対して軍事行動を起こし、ターリバーン政権を倒すわけです。

 

イラク戦争

 

はいそして2003年。アメリカは、イラクのサダム=フセインが大量破壊兵器を保持しているとして、すなわち「テロを起こす可能性がある」として、イラクに戦いをしかけます。

 

これが、イラク戦争です。

 

実際、イラクが核を持っていたかは定かではありませんでしたし、アメリカがねつ造したという説もあります。

 

しかし、サダム=フセイン政権が人権を抑圧しているというのは、周知の事実でしたので、イギリスやフランス、ドイツは反対しませんでした。

 

国連が何度か勧告した後、イラクは無視ししたため、アメリカとイギリスはイラクを攻撃し、サダム=フセイン政権を倒しました。

 

その後、外国軍が常に常駐し、中東地域は不安定な状態です。その状態は今もなお続いています。

 

まとめ

 

いかがでしたか?イラン革命からイランイラク戦争、そして湾岸戦争と流れで押さえておけば、こんがらがることもなさそうですね。しっかり復習して、得点につなげていって下さい!

 

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それでは!

 

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