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封建制、郡国制、郡県制の違いって?

 

どうも!ケイトです。

 

この記事では、「封建制、郡県制、郡国制の違いが分からない。。。」というお悩みを解決していきます。

 

封建制、郡県制、郡国制の違い

違い

封建制→周で、君主が領土を諸侯
に与える代わりに、諸侯が君主のために戦う統治制度

 

郡県制→秦の始皇帝が採用した中央集権的な地方制度で、全国をいくつかの郡、県に分けて長官に統治させた

 

 

郡国制→漢で行われた封建制と郡県制のミックス制度。長安周辺は郡県制、それ以外の地域は封建制。

封建制とは?

 

封建制は、日本の鎌倉時代にも見られた制度ですね。中国では、周の時代に見られました。

 

君主と諸侯がいて、君主は諸侯に土地を与えました。その代わりに諸侯は君主のために戦ったのです。ご恩と奉公の関係ですね。

 

しかし、諸侯が強くなりすぎて、独立する人も出てきたので周は衰え、春秋戦国時代に入っていきました。

 

郡県制とは?

郡県制とは、秦の始皇帝が採用した中央集権的な地方制度のことです。どういうこっちゃという感じですが、詳しく解説していきますね。

 

まず、全国を36の郡に分けます。

 

 

そして、それぞれの郡には長官、副長官、郡の指揮官、監察官などの官吏を派遣し、支配させたのです。

 

さらに郡をいくつかの県に分けて統治しました。この郡県制が、秦の中国統一政策の中で最も重要な施策でした。

 

郡国制とは?

始皇帝が全国に施行した郡県制は、地方分権的な封建制度を否定する形で、中央集権的に全土を支配するための制度として施行されました。

 

しかし、今までの封建制から急激に中央集権化を推し進めたので、秦に滅ぼされた国々は、秦に対して不満を抱くようになりました。

 

やがて始皇帝が死去し、大規模な農民反乱であった陳勝・呉広の乱が起こって秦が動揺すると、各地で反乱が起きるようになり、秦は滅亡しました。

 

この秦の失敗から学び、次の前漢は郡県制を改め「郡国制」を採用しました。簡単に言えば、「郡国制」=「封建制 + 郡県制」です。

 

皇帝の直轄地としての関中(長安の周辺地域)には、郡県制をしき、官吏を派遣して直接支配し、それ以外の地には一族や功臣の有力者を諸侯王として配して世襲的にその地の支配権を任せる封建制を復活しました。

 

漢のはじめは、皇帝の直轄地が十五郡、諸侯王に与えられたのは三十余郡であったとされますが、高祖は少しずつ諸侯王の領地を奪い統制を強めようとし、

 

その後、呉楚七国の乱で諸侯王の勢力を抑えることに成功してから、漢は全土を実質的に郡県制的に直接統治するようになっていきました。

 

封建制、郡県制、郡国制の違い

違い

封建制→周で、君主が領土を諸侯
に与える代わりに、諸侯が君主のために戦う統治制度

 

郡県制→秦の始皇帝が採用した中央集権的な地方制度で、全国をいくつかの郡、県に分けて長官に統治させた

 

 

郡国制→漢で行われた封建制と郡県制のミックス制度。長安周辺は郡県制、それ以外の地域は封建制。

まとめ

 

いかがでしたか?

封建制、郡県制、郡国制の違いを解決しました。君主達が過去から学ぼうとしているのがよく分かりますね。

 

ここでお知らせ。

 

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それではまた!

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