どうも!ケイトです。
第一次世界大戦は1からしっかり説明できますか?でも実際少し捉えづらいところがありますよね。
今回は、第一次世界大戦について分かりやすく解説していきます。
Contents
バルカン戦争
ボスニア・ヘルツェゴビナを無理矢理併合
第一次世界大戦の火だねとなったのは、バルカン半島でした。バルカン半島はパンゲルマン主義とパンスラヴ主義が交錯し、いつどこが戦いが激化するか分からない状態だったんですよね。
中でもパンゲルマン主義のオーストリアは、パンスラヴ主義がバルカン半島に広まって、彼らが支配している土地で分離や自治運動が始まってしまうことを特に恐れていました。
そこでオーストリアは行動を起こします。オスマン帝国で青年トルコ革命が起き、ちょっとした混乱が起きるとその隙に、管理下にあったボスニア・ヘルツェゴビナを無理矢理併合してしまいました。
この2つの地域の住民は大半がスラヴ系だったので、スラヴ系の国として併合しようと思っていたセルビアがブチ切れました。
第一次バルカン戦争
パンスラヴ主義のロシアは、バルカン半島に進出してきたオーストリアを迎え撃つために、セルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアの4国をバルカン同盟として結成させました。
パンスラヴ主義では、ロシアが親方みたいなところがありますね。
そして、同盟結成の同じ年に、オーストリアに宣戦したため、第一次バルカン戦争が始まりました。
結果として、バルカン同盟は見事に勝利します。
第二次バルカン戦争
見事にオーストリアに勝利したバルカン同盟でしたが、戦利品の取り分を巡って仲間割れを起こしてしまいます。仲良くしなさい。。。
構造としてはブルガリアとそのほかバルカンの国で対立します。そして結局その対立が戦争に発展してしまいます。
第一次バルカン戦争は、オーストリアとの戦いでしたが、第二次は身内同士の争いなんですね。
結果として、ブルガリアは敗北し、「もういい!抜ける!」と言って、第一次世界大戦では同盟国側で参戦することになります。
こうしたバルカンの問題は様々な列強が関係しているため、対立が起こりやすく「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。
第一次世界大戦勃発
サライェヴォ事件
オーストリアの皇太子とその奥さんが、セルビア人の青年に暗殺される事件、サライェヴォ事件は有名ですよね。
先ほどのバルカンの話を踏まえると、この事件がどれだけヤバいことか分かると思います。
事件後、オーストリアはこの事件を利用して、スラヴ系の運動を抑えようともくろみ、セルビア宣戦しました。一方のセルビアは親分のロシアを呼んできて、バックアップ体制を整えました。
そして、1914年8月にドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア、イタリアの同盟国側、ロシア、イギリス、フランス、日本の協商国側に分れて戦いが始まりました。
これをご存知の通り第一次世界大戦といいます。
総力戦
戦争はドイツが中立であるベルギーへ侵入したことから始まりました。
その後、ドイツはフランスに侵攻しましたがマルヌの戦いで阻止されます。東の方ではドイツがロシアを破ります。(タンネンベルクの戦い)
第一次世界大戦のポイントは、新兵器が次々登場し戦争が長期化したことです。航空機、毒ガス、戦車の登場。塹壕にこもって撃ち合いが行われました。
このせいで、クリスマスには終わるだろうと思われていた戦争は全然終わらず、物量戦、長期戦になっていきます。
こうなってくると、国に資源がある側、仲間が多い側が有利になっていきます。
ということから、両者とともに敵国側の経済を止め、仲間を増やすことに力を入れ始めます。
イギリスはアラブ方面で秘密条約を結んで仲間を増やしますし、同盟国側にいたイタリアを寝返らせたりします。
アラブの秘密条約は中東戦争に繋がっていきます。
また、国を挙げて戦争に力を注ぎ込むために、総力戦体制がしかれます。
軍需工場が優先され、女性や子どもをそこで働かせ、国民の消費活動を制限して使えるものはすべて戦争に使いました。
自国の植民地から物資を調達できあ、イギリスはフランスはそこまで苦しみませんでしたが、貿易もなく、植民地も微妙だったオーストリアとドイツは苦境に立たされます。
結果
国民からの批判も強くなってしまったドイツは、国の統制も、戦いも上手くいかなくなっていきます。
ブルガリアもオスマン帝国も白旗をあげ、オーストリアも休戦協定を結んでおり、ドイツは孤立してしまっている状態でもありました。
ドイツも一旦休戦を申し込もうと、行動にでますが、ここで事件です。
早く講和をして戦争を終わらせたい軍人がキール軍港で蜂起したのです。これを機に、国民の不満も爆発し革命運動が広がります。
結局皇帝はオランダに亡命し、ドイツは帝国から共和国になりました。これをドイツ革命といいます。
そして、共和国になったドイツは休戦協定を結んで、敗北という形で大戦に終止符を打ちました。
ヴェルサイユ体制
1919年、パリ講和会議が開かれ今後敗戦国をどうしていくかが話し合われました。
アメリカのウィルソン大統領は、十四ヵ条という平和原則を出して、講和の基礎になるように訴えました。
秘密外交や、非民主主義的な政治を強く批判したのです。
しかし、フランスのクレマンソーやイギリスのロイド=ジョージは耳を貸さず、自分らの利益を守り、ドイツなどの敗戦国に復讐することにしか興味がなく、十四ヵ条はあまり実現されなかったのが現実です。
さて、敗戦国の処分を決める条約が結ばれるわけですが、各国それぞれ条約の名前が違いますので、語呂合わせで一気に覚えてしまいましょう。
毒食べる、ハングリーな鳥ブルドック
お~惨事だがオスSAVE
独(毒)
ヴェルサイユ条約(食べる)
ハンガリー(ハングリー)
トリアノン条約(鳥)
ブルガリア(ブル)
ヌイイ条約(ドッグ(犬))
オーストリア(お~)
サンジェルマン条約(惨事)
オスマン(オス)
セーブル条約(SAVE)
また、東欧の8国の独立も認められます。これは共産主義がロシアから広まらないようにするためのガードの役割でした。
これも語呂合わせで覚えていきましょう。
夕ご飯、チョコをポリっとライス封印
ユーゴスラビア(夕)
ハンガリー(ご飯)
チェコ(チョコ)
ポーランド(ポ)
リトアニア(リ)
ラトビア(ラ)
エストニア(イス)
フィンランド(封印)
また、国際連盟も設置されますね。このような平和を目指したヨーロッパの新しい国際秩序をヴェルサイユ体制と呼びます。
ワシントン体制
ヴェルサイユ体制とセットで覚えて欲しいのが、ワシントン体制です。
これは、アメリカ大統領のハーディングが主導し、イギリス、フランス、日本など9カ国が参加したワシントン会議で決まった国際秩序のことです。
この会議では、軍事力の制限と中国の領土を保全することについてが主に話し合われ、その結果、軍で使う船の多さを決めた、海軍軍備制限条約、中国の主権尊重、領土保全を約束した九ヵ国条約が結ばれました。
さらに、太平洋諸国で平和を維持しようと約束した、アメリカ、イギリス、フランス、日本による四カ国条約が結ばれます。
まとめると、ワシントン会議では、太平洋やアジアについての国際秩序が定められたんですね。
ヨーロッパの国際秩序である、ヴェルサイユ体制に対し、アジアの国際秩序をワシントン体制と呼びました。
まとめ
いかがでしたか?
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