どうもケイトです。
この記事ではプロイセンとドイツ帝国とドイツ連邦の違いの解説をしていきます。
Contents
プロイセン
これらの違いはドイツの歴史を追っていくと明快に分かってきます。話の中心はプロイセンです。
プロイセン公国
プロイセンは、ドイツ騎士団が東方植民で移り住んできたことでできたのが始まりです。16世紀には、ポーランドを宗主国とした公国になりました。
公国というのは、事実上独立はしているものの、形式的には王国に従属している形態のことですね。
宗教改革が始まると、ルター派が広まっていきます。
三十年戦争ではプロテスタント側で戦い、勝利すると、ポーランドから独立することができます。この時ドイツはバラバラになってしまいましたね。
プロイセン王国
18世紀、フリードリヒが王になります。
スペイン継承戦争では、オーストリアのハプスブルク家の味方となって戦いました。その功績が認められてご褒美に、王国になることができます。
フリードリヒ1世は軍国主義でしたので、軍隊が超絶強くなります。また、フリードリヒ2世は改革派で、啓蒙君主として有名ですね。
彼は、オーストリアと戦ってシュレジエンをゲットするなど、戦争しては領土を広くをするを繰り返して行きます。
ドイツ連邦
フランス革命が進んで行く中で、農奴解放や教育改革などの運動が起こるようになり、ナショナリズムの高揚からドイツ統一の問題も浮上してきます。
ドイツ連邦
フランス革命が終わり、王政に戻したいオーストラリアは、「ドイツ系の国は団結しよう!」と呼びかけ、ウイーン会議を経て、ドイツ連邦を組織しました。
この中には、オーストリアやプロイセンなどの35の君主国、ハンブルクなどの4自由都市が含まれています。
ドイツ連邦は国と言うよりも、君主国で構成される同盟に近い組織です。
大ドイツ主義 小ドイツ主義
ドイツ連邦では、だれがリーダーとなり、どのように統一するかでもめていました。
案は2つ。オーストリアを含むドイツ人地域とベーメンを含め広く統治していく、大ドイツ主義、
オーストリアを除いた地域で構成する小ドイツ主義です。
オーストリアは大ドイツ主義に反対します。
なぜなら、彼らの支配国が含まれていなかったからです。そのため、小ドイツ主義で進めることになり、憲法を作り、プロイセン王にドイツ皇帝をお願いします。
しかし、プロイセン王はまさかの拒否です。自由主義な憲法も嫌だったし、その国王なんてとんでもなかったからです。
プロイセンとオーストリアの主導権争いは続きます、プロイセンではビスマルクが首相となり、軍備の拡張が行われ、頻繁にオーストリアと戦争するようになりました。
結果、ドイツ連邦は解体されてしまいました。
ドイツ帝国
ドイツ連邦が解体されると、プロイセンは南ドイツの領邦も抱き込み、北ドイツ連邦を結成します。
ビスマルクは戦争の天才で、フランスを挑発して戦争に持って行き、圧倒的な軍事力でボロ勝ちしました。(プロイセン=フランス戦争)
そして、1871年、ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝になり、ドイツ帝国が成立します。自由主義名憲法ではなく、都合の良い憲法をつくって制定し、見かけ上の立憲君主国になりました。
まとめ
いかがでしたか?ドイツの統一はややこしいですが、しっかり話を追って押さえていきましょう!
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それではまた。
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