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ウィーン包囲1次2次の目的の違いとは?!

どうも!ケイトです。

今回は、違いを説明しろって言われたら難しい、ウィーン包囲について解説していきます!

 

第一次ウィーン包囲

第一次ウィーン包囲は、1529世紀に起こりました。オスマン帝国のスレイマン1世が、神聖ローマ帝国のウィーンを包囲します。

 

オスマン帝国の皇帝の覚え方!

 

理由としては、サファヴィー朝から南イラクを奪い、北アフリカも手に入れ、モハーチの戦いでハンガリーもゲットしていたオスマン帝国が、

 

神聖ローマ帝国のカール5世がボヘミア・ハンガリーの王位を継いだことに対して、「ハンガリーは俺のもんやぞ!」と圧力をかけたかったためでした。

 

結局冬が来る前にオスマン帝国は撤退しましたが、その後もなんどかオスマンとオーストリアは戦いました。

 

このウィーン包囲の結果や影響としては、まずハンガリーは半分こすることになります。オスマン帝国のハンガリーは支配は100年以上続きました。

 

また、イスラーム教徒に街を包囲され、ハンガリーを奪われたことはヨーロッパのキリスト教徒に衝撃を与えました。

 

 

第二次ウィーン包囲

2回目は1683年に行われます。一回目と同じようにオスマン帝国がオーストリアのウィーンを包囲しました。

 

しかし、オスマン帝国の内部ではスルタンと権威が落ち、政治にすごく邪魔が入って大混乱している状態でした。

 

そして、ウィーン包囲という政策に打って出たのも、その混乱の中で目立つために宰相が行ったものでした。宰相はスルタンの代わりに政治を行う人のことですね。

 

ウィーン包囲をしてみたものの、オーストリアは第一回目の屈辱から学び、壁を増強したり、持ちこたえている間に周りの国の協力を要請したりしました。

 

結果、オスマンは撤退することになり、さらにオーストリアは攻撃をしかけました。ポーランド、ヴェネツィア、ロシアなど協力を得て連合軍を編成し、オスマン帝国に立ち向かっていったのです。

 

オーストリアは見事オスマン帝国に勝利し、ハンガリーのブタペストをイスラーム勢力の支配から解放しました。

 

その後、勢いに乗ったオーストリアは大国化、勢いを失ったオスマン帝国はヨーロッパの領土の縮小、弱体化に向かっていきました。

 

まとめ

 

いかがでしたか?ややこしい部分も分かると楽しいですね。しっかり復習して点数につなげていきましょう!それでは!

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