【京大生の学歴論】これからは実力の時代?学歴って本当に必要なの?

 

どうも!ケイトです。

 

大学入学を目指して努力をするにはある程度モチベーションが必要になってきます。それが揺らいでしまうと頑張らなければならない時に踏ん張れなくなってしまいますよね。

 

大学受験のモチベーションは人それぞれですが、「とりあえず大学に行っておきたい」「就活で不利になるから」というモチベーションで頑張っている人も多いのではないでしょうか。

 

しかし、学歴というものがどんどん重視されなくなってきている今日の社会で過ごしていると、「学歴って本当に必要?」「じゃあ、なんのために勉強してるんだ?」と思うこともしばしばですよね。

 

ということでこの記事では、学歴って本当に必要か?という話を、京都大学の現役学生からの視点でしていきたいと思います。

学歴がなくても生きていける社会?

学歴とはなんぞや

 

ここで学歴かどのような意味をハッキリさせておきましょう。

ユネスコが出している統計フレームワークだと、

レベル0 – 就学前教育(幼稚園、保育所等)レベル
レベル1 – 小学校レベル
レベル2 – 中学校レベル
レベル3 – 高等学校、専修学校高等課程(高等専修学校)レベル
レベル4 – 高等教育機関進学準備(予備校等)、就職準備(職業訓練校等)レベル
レベル5 – 短期大学、高等専門学校、専修学校専門課程(専門学校)レベル
レベル6 – 大学の学部の学士課程レベル
レベル7 – 大学の大学院の修士課程(博士前期課程)・専門職学位課程レベル
レベル8 – 大学の大学院の博士課程(一貫性博士課程、博士後期課程等)レベル

という感じ。

多くの人が悩むのは、

・レベル5,6に進むべきかというところ(高校以上の学歴を得るかどうか)と

・レベル6の中でも大学のランクが気になる(高学歴を狙うかどうか)

という2点だと思います。

学歴社会ではなくなってきているとは言うものの、大学に進むのは大前提でその中で大学のランクはさほど気にされなくなってきているというニュアンスの方が強いように感じます。

 

この記事では、進む大学のランクという意味合いで「学歴」を使っていきます。「学歴がある」は「大学のランクが高い」と同義だと思って頂いて結構です。

 

学歴にこだわらなくても生きていける社会ではある

 

世間は学歴社会ではあるものの、学歴が高くないといけないかと言われればそうでもない社会ではあります。

 

実際就活をしている身としても、ゴリゴリに学歴フィルターをかけてくる企業はそこまで多くはありません。

 

スキルや人柄も見られているように感じますし、世間的にも「そうであるべき」という風潮が強くなってきてはいるのかなとは思います。

 

とはいえ潜在的な学歴主義

 

とは言ったものの、日本は潜在的な学歴主義です。

 

表向きとしては、「学歴主義はダメ!人柄を見なきゃっ」っていう感じ。つまり、学歴主義反対という建前ですが、実際のところは、OBOG訪問によって、先輩のツテで会社に入れたりとか、学歴によって昇進のスピードが変わってきたりするなどがあります。

 

学歴社会は消えてはいないのです。

 

学歴社会であることは昔も今も変わらない

そもそもなぜ学歴が必要なのか。

学歴社会の萌芽:なぜ生まれたか

 

学歴社会が芽を出したのは、身分制が取り払われた時期くらいからです。

 

身分制の時代では、その血縁や身分によって、社会的地位が決まっていました。

 

血縁や身分は、そう簡単に変わるものではないので、世代が変わったとしても、親から子に社会的地位が受け継がれていました。しかし、近代になってくると、こういったシステムは受け入れられなくなってきます。

 

自由や平等、効率という価値観が良しとされる時代だからです。世襲のようなシステムは崩壊し、能力が重視され、親の社会的地位に左右されずに生きていける時代が到来したわけです。

 

そこで、「能力を測る」ことが必要になっていくわけですよね。

 

能力は簡単に測れない

 

しかし能力というのは簡単に測れるものではありません。

 

よく言われる「コミュニケーション能力」は何を基準に、コミュ力があるとしているのかは漠然としています。

 

同じ人でも

A君と話しているときは会話の弾み、

Bさんと話しているときはあまり会話の弾まない

ことはよくありますよね。A君と話しているのを見られたらコミュ力があると思われるだろうし、Bさんと話しているのを見られたときはコミュ力がないと思われるでしょう。

 

一方で、コミュニケーションが苦手だとなんとなく自覚したり、「あの子はコミュ障だ」と簡単に判断したりもします。そのくらい能力を測る基準は曖昧です。

 

足の速さのような具体的な能力でさえ、本当に正確には測れません。追い風やドーピングが規制されるのは、その人の足の速さでないところが作用していると考えられているからです。

 

これは当然ですが、その人の普段の生活やその人の食べたもの、その他諸々足の速さに影響しているものはあるのであって、すべての人の条件をすべて同じなんてできないのです。

 

これは100m走を批判しているのではなく、それくらい具体的な能力でも、本当に正確に誤差もなく測るのは、難しいことだということです。

 

分かりやすい指標、それが学歴

 

能力を正確に測るのは困難であっても、暫定的にでもその人を評価していく必要があります。そこで登場するのが、「学歴」なんです。

 

暫定的な指標の他の例としては、「ノーベル賞」「医者」「貨幣」などです。

 

「ノーベル賞」をとったらスゴいと思うし、

医学部を出ていれば、その人のことをよく知らなくても医者を信用できますよね。

 

これは、世の中一般がそれは「スゴい」と信じていて、価値があると信じているから起こっています。この点では貨幣も同じです。

 

今日の社会は「学歴」があることをみんなが「スゴい」と信じているので、暫定的な能力の指標として機能しています。したがって、「東大を出ている」というある種の資格は、「能力がある」という判断材料になるわけです。

 

 

そもそも学歴社会批判はなぜ起こるのか

 

では、そもそもなぜ学歴社会は批判されるのでしょうか。やれコミュニケーション能力、プレゼン能力など、別に新しくもない能力が、「新しい能力」として身に付けるべきだと叫ばれ、学歴が貶められるのはなぜなのでしょう?

 

学歴社会への批判は、今に始まったことではありません。そもそもずっとずっと批判しては新しそうな能力を提示するというのを繰り返しているんです。

 

学歴主義の浸透は、前半と後半に分れています。時代としては、近代以降です。また、前提として、「能力を評価されたい」「自分の能力を認識していたい」という能力不安が人間の根底にあります。

学歴主義の始まり前半

1段階目は、まだ教育システムが十分に発達していない時代です。産業革命頃のこの時代では、教育の経歴という意味での学歴は、分かりやすい能力指標でした。

 

学校に入るために得た知識、学校で学んで知識、勉強スキル自体が、人間の能力を表示する資源だったのです。学歴=知識の多さ=優秀という構図だったんですね。このシステムでは、人が自分の能力を認識するのは比較的容易でした。

 

学歴主義の始まり後半

後半は、メディアの浸透、コンピューターの普及などの情報化により、人が容易に膨大な情報に触れることができるようになった時代。

 

それまでは、自分達が暮らしている地域外の人の様子なんて知るよしもありませんでした。が、メディアなどにより、遠くに住んでいる人の情報でも手に入れられるようになると、自分と他者を容易に比較できるようになります。

 

これは、人の不安を大きく煽ります。「自分って本当はすごくないのではないか」という能力不安に襲われるのです。

 

能力不安の例としては、自分は神童だと思って自信満々に地方から東大に来た人が、他の優秀な東大生に出会って、自分と比較し、落ち込むというのが割と有名かと思います。

 

身分制の社会では、社会的地位は変動することがありませんでしたが、近現代では、自分の能力で、社会的地位が決まります。それはつまり、自分の能力がないのではないかという不安は、自分の社会的地位まで揺るがすことになるわけです。

 

この能力不安により、塾に行く、模試を受ける、偏差値という概念を打ち出し、より高い偏差値の学校に行くということが一般化しました。

 

教育システムの拡大は、能力社会、学歴社会と同時に起こってきたものとも言えるでしょう。

大卒が大卒を批判する

 

しかし、誰でも教育が受けられるようになると、学校に行った人が必ずしも能力を持っているわけではないということに、みんなが気づき出します。

 

あれ?別に高学歴でも能力なくね?

 

学歴主義を批判するのは、よく見ると大卒なんです。「大学生は遊んでばかりで勉強しない」「大学の勉強なんて社会では役に立たない」と大卒が大卒を批判している、そんな状態。

 

教育拡大が進展すればするほど、大卒が大卒を否定する社会が生まれる。そんな皮肉な社会。

 

大卒が大卒を批判して、そんな風に学歴主義からなんとか抜け出そうともがいていますが、現状として、学歴と同じレベルに信頼できる能力指標は見つかってません。

 

それは批判している人達も薄々感じていて、学歴主義批判自体が目的となってしまい、中身がないんです。

 

「新しい能力」なんてそもそもふわふわしています。コミュニケーション能力なんてどんな時代でも必要とされる普遍的スキルですし、職業によって必要な能力さえ違います。

 

これからはこの能力の時代だ!なんて説得力がありません。

ここまでをまとめると

 

長々と説明してしまいましたが、昨今の学歴主義批判は中身がなく、暫定的な能力指標は今でも学歴であるので、学歴は持っておいて損はないというのが結論です。

結論:学歴はないよりはあった方がいいもの

 

学歴社会はまだまだ残っているという話をしました。暫定的な能力指標は、今でも学歴です。「学歴」、それも「高学歴」はあって損はしません。

 

まあ、私自身「京大」という学歴の恩恵を享受しています。継続力や、やり抜く力の担保にもなるし、「京大生」ってだけで社会から評価されます。

 

新たな能力指標が見つかり、本当に学歴がなくても良い時代にシフトして、学歴は要らなくなるかもしれませんが、京大に入るまでした経験(情報を取り入れ、計画し、自分に打ち勝って勉強してきた経験など)は、自信や努力のスキルという面で今後の人生でプラスに働くことが多いでしょう。

 

ただ、3浪以上してまで死ぬ気で追い求めるものでもない気がします。冒頭に、高学歴でなくても生きていける時代と書きました。潜在的な学歴主義でも、建前は脱学歴主義なので、今は社会人からでもやり直せる社会でもあります。

 

能力不安が煽られがちな現代人。学歴は持っておいて損はないが、学歴は自分の能力の全てではないと考え、進路を考えてみて下さい。

 

まとめ

 

いかがでしたか?

少し歴史の話もしたので、ややこしかったと思いますが、今後の決断の参考になれば幸いです。

ではでは。

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