【似てる出来事】アナーニ事件と教皇のバビロン捕囚の違いって?

 

どうも!ケイトです。

 

アナーニ事件と教皇のバビロン捕囚って何が違うの?って聞かれたらちゃんと答えられますか?

 

自信がないというあなたも大丈夫です。この記事を読み終わる頃にはしっかり整理ができています。今回はアナーニ事件と教皇のバビロン捕囚について詳しく解説していきます!

 

今日も元気出して行きましょう!

 

Contents

アナーニ事件

信頼を失う教皇様

教皇権が衰退していった原因は覚えていますか?

 

え?

 

忘れた?

 

復習はこまめにすると、内容がどんどん入ってきます。答えを言いますと、十字軍の失敗ですね。

【3分】十字軍を分かりやすく解説!覚え方も!

 

十字軍の失敗で教皇は半端なく信用を失いました。

 

同時に十字軍を指揮し勇敢に戦った王様の力が強くなっていったことで、王様が国を統制できるようになり、教皇様はどんどん力を失っていくのです。

 

十字軍も終わり、信頼が失われてから13世紀末に教皇になったのが、ボニファティウス8世という人物です。

 

もうこの頃には王様がリーダーシップを発揮して国をまとめ、聖職者に対しても税金をとるようになりました。

 

しかし彼は今までの教皇権が忘れられず、

 

教皇は絶対だ!聖職者なのになんで税金を払わなきゃいけないんだ!

と英国、フランスの国王に抗議します。

 

もう必死ですね。

 

そして14世紀に入りたてのあるとき、事件が起こります。

 

教皇 拉致られる

 

ボニファティウス8世は、アナーニに滞在中、襲撃を受け、捕まってフランスに連行されてしまいました。

 

簡単に言えば、拉致ですね。

 

 

しかも、この拉致計画を命令したのはフランスの国王、フィリップ4世でした。

 

彼はずっと教皇の態度が嫌でなんとかしたいと思っていましたが、自分で一人ではどうしようもありませんでした。

 

そこで、議会を開いて「教皇シメたいんやけどどう思う?」と聞くのです。

 

賛同を得たフィリップは着々と準備を進め、教皇がアナーニに出かけたタイミングで拉致を実行させました。

 

拉致された教皇は3日間監禁されました。

 

釈放された後、教皇はローマに戻ってこれましたが、屈辱を受けた彼は、その年に急逝しました。実際は高齢と不摂生が死因だそうですが、屈辱のもとでの彼の死を人々は「憤死」と表現しています。

 

教皇のバビロン捕囚

フィリップ4世はその後、教皇の住まいをローマから、南フランスのアヴィニョンに移しました。

 

こうすることで、教皇をフランスの監視下におくことができ、言いなりになったり勝手なことをされたりはなくなります。

 

ボニファティウスの末路をみたら、王様にはもう刃向かえなくなりますしね。

 

さて、この出来事を比喩で、昔あったバビロン捕囚になぞらえ、「教皇のバビロン捕囚」と呼んでいます。

 

バビロン捕囚というのは、ヘブライ人の国が新バビロニアに征服され、バビロンに強制移住させられる事件ですね。

【今更聞けない!】バビロン捕囚って何ですか?分かりやすく解説!

 

「教皇のバビロン捕囚」も、教皇がフランスに強制移住させられています。

 

ここまでをまとめると、

アナーニ事件は、ボニファティウス8世が国王に捕らえられて、その後憤死した事件。

 

教皇のバビロン捕囚は教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移された出来事

 

ということになりますね。

 

似てるのでごっちゃになりやすいですね。整理しておいてください。

 

ちなみに教皇庁は結局70年ほどフランスに置かれました。70年後教皇がローマに戻ると、前代未聞の事件が起こります。

 

また事件かい!

 

なんとフランスのアヴィニョンにも、別の教皇が現れるのです。

 

つまり同時に2人の教皇が存在してしまう状態になってしまったのです。しかも両者は対立。

 

この出来事を教会大分裂、または教会大シスマと呼びます。

 

この出来事によって、「聖なる存在のくせに揉めすぎ」ってことで教皇の権威失墜は確定的になりました。

 

ウィクリフとフス

ここから余談ですが、関連するので、ウィクリフとフスのお話を。

 

教会の腐敗ぶりを批判して、改革をしようとする運動が各地で起こるようになります。そこで有名なのが、ウィクリフとフスという人物です。

 

まずはウィクリフ

 

ウィクリフは、最高の権威は教皇じゃなくて聖書だ!と教会を批判し、ギリシア語で書かれた新約聖書を英訳して、広めました。

 

次にフス

 

フスはウィクリフに共感し、破門されてもめげずに教会批判をし続けたのです。これを教会が黙って見ているわけがありませんね。

 

 

宗教界が混乱していては、政治も危うくなるので、ここは神聖ローマ皇帝が、フスを呼びつけます。なぜフスだけかというとウィクリフはもう亡くなっているからです。

 

そんなのこのこと捕まりに行くわけないじゃないか、とフスは拒否します。まあそりゃそうですよね。

 

皇帝側は、「フスの身柄の安全は確保するぜ。だから来いよ」すると言い、しぶしぶフスは出かけます。しかし、着いてみると、フスはたちまち捕まってしまいます。

 

皇帝側は、安全を保証すると行っただけで、約束したわけではない、と意味不明なことを言い、フスを拘束し、牢屋にぶち込んでしまいます。

 

そして、1414年に開かれたコンスタンツ公会議で、フスの裁判が行われます。

 

そこで、ウィクリフとフスは異端として有罪判決を受け、死刑が決定します。フスは火刑に処され、ウィクリフも墓を掘り起こされ、焼かれて川に流されました。

 

ちなみに、コンスタンツ公会議では、ローマにいる教皇が正統であると決まりました。

 

しかし、ベーメンではチェコ民族運動と相まってフス派の反乱、フス戦争、が起き、それは結構長引きます。

 

このように教会批判の運動とそれに対する教会の弾圧はなんども繰り返されていったのです。

 

アナーニ事件と教皇のバビロン捕囚の違いまとめ

 

アナーニ事件は、ボニファティウス8世が国王に捕らえられて、その後憤死した事件。

 

教皇のバビロン捕囚は教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移された出来事。

もうばっちりですね。

 

まとめ

 

いかがでしたか?

 

教皇権の衰退について解説しました!論述できるようになるくらい、何度も読んで下さいね。

 

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