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モンゴルの駅伝制、ジャムチって何?!大帝国モンゴルを徹底解説! 

どうも!ケイトです。

 

今回はジャムチって何?ということで大帝国モンゴルを徹底解説していきます!

 

駅伝制とは?

駅伝制とは、モンゴル帝国で整備された交通網と交通システムのことです。首都大都(北京)につながる交通網が整備されていきました。

 

モンゴル帝国は帝国全土にわたる交易路を整備し、また2030kmおきに宿舎・食料・換え馬を備えた宿駅を設置することで交通の円滑化を図りました。この制度をモンゴル語でジャムチと呼んでいます。

 

よく考えたら、この時代にすごいことしていますよね。

 

では、なぜこのような駅伝制がモンゴル帝国で導入・発展したのでしょうか。

 

 

それを紐解くためにも、少しモンゴル帝国について見てみましょう。

 

モンゴル帝国は13世紀初め、チンギス=ハンがモンゴル人とその周辺民族を統合した遊牧帝国のことです。

 

急速にその勢力を伸ばし、13世紀後半までにはユーラシア大陸の東西に及ぶ、世界史上で最も広大な領土を持つ帝国となりました。

 

チンギス=ハンの時にはモンゴル高原から中国北部、中央アジア、西トルキスタンにおよぶそれでも大帝国だったのですが、

 

その後その支配領域を中国全土、西アジア、ロシアにも広げていき、歴史に残る広大な帝国領を支配していきました。

 

それほどの大きな領土だったので、そのすべてを中央集権的に支配することはできませんよね。古代オリエント勉強したときも同じ事があったような。。。?

アッシリアとアケメネス朝の統治の違いとは?

 

また、同じ帝国とはいってももとは全然違う国であったし、広大な領土のため国内であっても物を運んだりするのは一苦労だったわけです。そこで制度を導入しました。

 

それが駅伝制です。

 

交易路や宿駅をしっかりと整備して、交易がしやすいようにしたのです。これによって、交易は盛んになり、東西の文化の交流をももたらしました。

 

モンゴル帝国はどうやってできた?

モンゴル高原では、12世紀初めに遼が滅亡すると、モンゴル高原の諸部族のあいだで統合の動きが強まりました。

 

やがて高原の東北部で勢力を伸ばしたテムジンは、1206年に集会(クリルタイ)でハン(君主)位につき、チンギスハンとなりました。

 

 

そしてモンゴル系・トルコ系の諸部族を統一して大モンゴル国をつくりあげました。

 

 

そしてチンギスハンは軍事組織として千戸制をしき、それがモンゴル帝国の行政単位にもなりました。

 

 

その後騎馬軍を率いて、草原・オアシス地帯に支配を広げていきました。

 

 

ホラズム=シャー朝や西夏、アッバース朝などを次々と滅ぼし、13世紀半ばまでにモンゴルの支配は、東は中国北部から西はロシア・イラク方面のイル=ハン国、南ロシアのキプチャク=ハン国、中央アジアのチャガタイ=ハン国などの地方政権がつくられ、それらが大ハンのもとにゆるやかに連合するという形をとりました。

 

語呂合わせ

 

語呂合わせいきましょう!

 

語呂合わせタイム

お茶で一服モンゴル人

 

オゴタイ(お)

チャガタイ(茶)

デリースルタン(で)

イルハン(1)

キプチャク(服)

 

Uの字を右からなぞっていくと、場所も把握できます!ぜひ活用して下さい。

 

キプチャク                          オゴタイ

イルハン        チャガタイ

デリースルタン

 

 

元ってどんな時代?

5代のフビライは、自分の勢力の強い東方に支配の重心を移し、大都(北京)に都を定め、国名を中国風に元と称し、南宋を滅ぼして中国全土を支配しました。

 

元は基本的にはモンゴル伝統の統治を受け継ぎましたが、実質的にはモンゴル人の中央政府による支配であったといえます。

 

 

そこには身分の格差が存在していて、支配階級であるモンゴル人の下に、西域出身で財務官僚として重用された色目人、旧金支配下の漢人、旧南宋支配下の南人がいるという構図でした。

 

 

科挙はほとんど行われず、江南の士大夫は活躍する機会が与えられませんでした。この区別は、実際には存在しなかったという説もあるので注意が必要です。

 

 

元代はその広大な領土から、東西貿易が盛んにおこなわれました。

 

貿易は「タタールの平和」と呼ばれ、整備された駅伝制や大運河などを駆使していました。ここでの通貨は交鈔という紙幣のみが使用されました。

 

元代は、その広大な領土とそれに伴う駅伝制や大運河を利用して貿易が盛んに行われた時代だと結論付けることができるでしょう。

 

 モンゴルの滅亡

14世紀は世界的な天候不順や流行病の発生によって、不作や内紛が相次ぎました。

 

チャガタイ=ハン国はティムールが乗っ取り、のちにイル=ハン国も併合し、キプチャク=ハン国はモスクワ大公国にとって代わられました。

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中央の元は不作や社会不安からくるモンゴル王室のチベット仏教の狂信から財政が悪化しました。

 

それを改善しようと紙幣交鈔を乱発すると、社会は大混乱に陥ってしまいました。その混乱に乗じて宗教団体白蓮教徒が台頭し、白蓮教徒を中心に紅巾の乱が発生しました。

 

 

そのなか、1368年に朱元璋が、モンゴル勢力をモンゴル高原に追いやり明を建てました。これにより、実質的にモンゴル大帝国は滅亡しました。

 

 

まとめ

 

いかがでしたか?モンゴルをしっかり理解すると、イスラーム世界のことまで分かってきますね。

次から明に入ります。また面白くなりますよ!

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それではまたお会いしましょう!bye-bye!

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