どうも!ケイトです。
戊戌の変法、政変とか何が違うのか説明できますか?しっかり押さえておかないと、試験で分からーん!となってしまうので、今のうちに覚えておきましょう
ということで、今回は戊戌の変法・政変について詳しく解説していきます!この記事は3分ほどで読めます!
Contents
戊戌の変法・政変とは?簡単にまとめてみた
戊戌の変法とは、1898年に清で起こった制度改革運動です
時期的には、日清戦争戦争後です。日清戦争に敗北を喫した清は、列強各国に領土を占領されてしまいました。(中国分割)
さすがにこのままじゃダメだ!と思った清は、西洋風の立憲君主制を取り入れようと運動を開始するわけです。これが戊戌の変法。
一方、戊戌の政変とは、戊戌の変法に反対する西太后(せいたいこう)などの保守派がクーデターを起こし、元の状態に戻してしまった出来事を言います。
では細かく解説していきましょう。
戊戌の変法
三国干渉
日清戦争では、大国である清が、小国である日本にまさかの敗北を喫してしまいますよね。子どもがウサイン・ボルトに競争で勝つくらいのインパクトでしょう。
小国の日本に敗北したことが知れ渡ってしまった清は、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアなどの列強に分割支配されることになってしまいます。
お腹を空かせたハイエナたちに見つかった弱ったうさぎのように、食い物にされていきます。
ちなみに、この時期に、日本と列強3国で起きたもめ事をなんと言いましたか?
3、2、1、せーの
三国干渉
はい、そうでしたね。
日清戦争の講和である下関条約で、日本は清から遼東半島をもらいます。これを横目で見ていた、ロシア、フランス、ドイツはこう思うわけです。
「あんな小国の日本に調子乗らせたくないな。俺たちも中国支配したいし、日本にこの大国はもったいない。くっくっく」と。(セリフはただの想像です。)
こうして、彼らは日本に圧力をかけ、遼東半島を清に返還させるわけですよね。そして彼らは、清にこう告げます。
「遼東半島返させたんだから、なんかよこせや。無償でやるほどお人好しじゃないで。」(なんかチンピラみたい)
ロシアは清から東清鉄道の敷設権を手に入れました。この時、不凍港を求め南下を目指していたロシアは、南に向かう切符を手に入れたわけです。さらに、遼東半島の南端の旅順・大連という所に租借権も得ました。
また、ドイツも膠州湾の租借権、フランスは安南鉄道と広州湾の租借権を延長し。雲南、広東での鉱山採掘権を得ます。
ここに、三国が中国に進出していくのを防ぎたいイギリスも参入してきて、威海衛、九龍半島の北部をちゃっかりゲットしてしまいます。
さらにその後しばらくしてからアメリカも参入してきます。
乗り遅れたのが嫌だったアメリカは、
「清では通商権や関税、鉄道の料金は入港税は平等であるべきなのです!各国に同等に解放されるべきです!」
と主張し、足並みをそろえようとしました。正義ぶってるけど、やってることは列強と一緒です。
この声明を出したのは、ジョン・ヘイという国務長官で、門戸開放宣言と呼ばれます。この宣言によって、中国分割の勢いは少し落ち着きます。
下の地図を見て、各国が占領した場所も覚えてしまいましょう。
出典:https://heiwa.yomitan.jp/4/3237.html
戊戌の変法で改革を目指す
列強各国の中国分割が分かったところで、清政府に目を向けていきましょう。
日本に負け、列強に食い物にされた清は、これまでの体制や、洋務運動に限界を感じていました。洋務運動とは、清の制度自体はそのままに、西洋の技術を積極的に取り入れて、西洋に追いつこうとした運動ですよね。
ただ戦争に負けたことで、このような洋務運動や従来のやり方では、衰退していく一方であり、西洋や日本のような近代的な制度の導入が必要なんだ!と認識されていくわけです。
この改革運動を指導したのは、公羊学の学者の康有為(こうゆうい)という人物です。
公羊学派というのは、「春秋」という書物の解釈の一つである「公羊伝」を支持している学派のことです。改革志向が強いことで有名です。
彼らは、「孔子の教えは古い制度を守るためでなく、改革のためにあるのだ!」と主張していました。
また、彼は当時の皇帝だった、光緒帝が起用した人物です。
光緒帝(こうしょてい)は改革派の皇帝で、伯母でガチガチの保守派の西太后(せいたいこう)と対立していました。西太后はあとで登場します。
光緒帝のもとで、康有為などの学者達は、近代的な制度の研究を行い、1898年には「新しい政治をしていきます!」という宣言ができるまでにいたります。科挙の改革や専門学校の設置、行政の業務の無駄を省くなど、政治を変えていきました。
この新しい政治をやっていこうという運動を、戊戌の変法と言います。注意したいのは、戊戌の変法というが、新しく憲法が導入されたなど、ということを指すのではなく、この運動自体を指すということですね。
ちなみにですが、それまでの清朝の政治のあり方を「成法」と言っていて、これを変えるということで「変成法」と呼ばれ、そしてこれを略して、「変法」と呼ばれるようになりました。
戊戌の政変
戊戌の変法という改革が進められる一方で、これにめちゃくちゃに反対する一派もいました。
現状維持を目指す保守派の人々のリーダー的な存在は、先ほど登場した光緒帝の伯母である西太后という人物でした。
彼女は、皇帝の妻(皇后)で、息子(同治帝)や甥っ子である光緒帝が幼い頃に、「代わりに政治をしてあげるわ」と言って実権を握った人物です。
同治帝の時には、洋務運動を支持し、安定した政治を行いました(同治の中興)同治帝が若くして亡くなると、光緒帝が帝位に就きましたが、彼はまだ幼かったので、また実権を握りました。
光緒帝が、ある程度成長し、自分で実権を握るようになったあと、彼女は一旦引退します。発言力はあり、日清戦争の開戦前は、戦争に反対したそうです。
さて、西太后のお話はこれくらいにして、話を戻します。
ガチガチな保守派である西太后が、この戊戌の変法に反対している中心人物だと気づいた光緒帝は、「彼女を捕まえて閉じ込めてしまおう」と思いつきます。
そこで、実力者である袁世凱に協力を依頼します。しかしながら、袁世凱という男、彼は野心家で、権力を得るためなら、手段を選びません。
彼に協力を頼んだのが、光緒帝の運の尽きでした。
え、どういうことかって?
こういうことです。
袁世凱の裏切り
袁世凱が力のある西太后に寝返ります。見事に裏切られた光緒帝は、逆に西太后に捕まり、閉じ込められてしまいました。映画みたいなストーリーですよね。
康有為は捕まらなかったものの、失脚して日本に亡命しました。こうして、光緒帝の戊戌の変法は、3ヶ月で幕を閉じてしまいました。
戊戌の変法を弾圧したこの出来事は、戊戌の政変と呼ばれます。
まとめ
いかがでしたか?
戊戌の変法、戊戌の政変を解説しました。似てるようで違うのでしっかり区別しておきましょう。
ここでお知らせ!
今だけ無料で「偏差値50代でも○○するだけで関関同立・MARCH合格レベルに到達できる革新的世界史勉強法」を配布しています
世界史の成績が伸び悩んでいる人はぜひゲットして、効率良く世界史の成績を上げていきましょう。
以下のボタンから、メルマガ登録して頂くと、手に入れることができます。
それではまた。
コメントを残す
コメントを投稿するにはログインしてください。