どうも!ケイトです
日清戦争、しっかり理解できていませんか?この戦争は、壬午軍乱・甲申政変など重要な出来事も含む結構大事な戦争です。
今回は、日清戦争までの流れを中心に、分かりやすく簡単に解説していこうかと思います。この記事は約2分で読めます
Contents
江華島事件
日清戦争を押さえるには、朝鮮で起きていた壬午軍乱や甲申政変を押さえなければなりません。
まずはこの壬午軍乱・甲申政変を解説していきましょう。
まず、朝鮮では、外交関係を清と日本だけに絞っていましたが、外交する相手を絞っている朝鮮を見て、欧米諸国は「開国しろや、こらァ」と何度も迫っていました。
清の皇帝、高宗の摂政である大院君は断固としてこれを拒否しました。彼らは攘夷、つまり鎖国主義を徹底します。
欧米を拒否ってる朝鮮を見ていた日本は、「朝鮮を独占できるかもしれない」と企み、色んな権利を奪ってしまおうということを考えます。
その結果起きた事件が、江華島事件です。日本が挑発し、それにのった朝鮮と武力で衝突しました。日本の狙いは、朝鮮をボッコボコに負かして、権利を奪い取ることでした。
日本は朝鮮に勝ち、狙い通り、超不平等条約である日朝修好条規を結びました。領事裁判権や釜山など港を3つ開けさせました。
対立関係
日本ににも負け、ボロボロな状態での朝鮮内部では、対立に対立を重ねてもっともボロボロになっていきます。
まず、攘夷派と開化派です。分かりやすく言ってしまえば、鎖国派と開国派。
そして、ややこしいのがここからです。改革派の中でも2つに対立します。
急進派と漸進改革派です。これは日本派と清派に分れています。
急進派で有名なのが金玉均、清派で有名なのが、閔氏(びんし)という一族です。
対立関係が分かったところで、壬午軍乱と甲申政変を詳しく見ていきましょう。
壬午軍乱、甲申政変
壬午軍乱は、改革派(親日グループ)である閔(びん)氏政権とそれを支えていた日本に対して、兵士が反乱を起こしたという出来事です。
閔氏は、開化派でしたが、そのために行う政策に毎回大金を使っており、だんだん自国の兵士に対して、給料が払えなくなりました
そのような兵士の反乱からこの壬午軍乱から始まりましたが、「日本なんかと仲良くしてんじゃねえよ!」と前々から不満を募らせていた攘夷派がこれを機に動き出したことで、政権崩壊まで繋がったのです。
漢城(今のソウル)で、攘夷派が開化派である閔氏の一派を殺害し、日本大使館を攻撃しました。政権を握っていた閔氏は命からがら逃げ出し、代わりに大院君という人物が、政権を握ることになりました。
のちに、清と日本がこの反乱によって出兵し、状態を反乱前に戻して、閔氏政権が復活しました。
その後起こった甲申政変は、開化派の日本派vs清派の事件です。これは、日本派が清派の閔氏政権を倒したクーデターでした。
壬午軍乱のあと、清は自らの朝鮮への力を強めようと、朝鮮の閔氏政権を手厚くサポートします。主に、兵士を駐在させて軍事力を担保しました。
このような状態に反発するのが、開化派の中の日本派(急進派)です。日本派である金玉均は、日本人と組んで、日本軍を使い、清が清仏戦争に夢中になっている間に、閔氏一族を殺害したのです。
閔氏を支持している清がすぐに飛んできて、袁世凱が軍を派遣したので、開化派が奪った政権は、すぐに倒れました。
この事件を機に、日本と清は天津条約を結び、朝鮮でもめ事が起こらないよう、出兵するときは連絡しあおうと取り決めました。
日清戦争
そしてようやく日清戦争のフェーズに入っていきます。お待たせしました。
一度は天津条約で、撤退や出兵時の通告を約束しましたが、事件は突然起こります。
甲午農民戦争が全琫準と言う人物が先導されて起きてしまいます。甲午農民戦争とは、朝鮮にて、度重なる戦争によって出費がかさみ、国民にしわ寄せが行って、増税されまくったことに対して、農民がブチ切れておこった戦争です
朝鮮は清に出兵を求めますが、天津条約のせいで清は出兵する時、日本にお知らせしなければなりません。これによって清の出兵を知った日本は、大事な朝鮮を奪われたくないと、出兵を決めます。
こうして、反乱の鎮圧を名目に、朝鮮という場での日本vs清の戦いが始まるのです。
これが日清戦争の始まりなのです。
下関条約
結果としては、日本が勝利し下関条約を結びます。
内容としては、遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲、賠償金、通商の時の特権など日本が超有利な講和でした。さらに日本は大陸進出のために朝鮮への圧力を強めました。
しかし、その後三国干渉を受けてしまうことになります。
まとめ
いかがでしたか?日清戦争を解説しました。壬午軍乱・甲申政変など重要な出来事が含まれているので、まとめて覚えてしまうのがお得ですね!
それではまた!
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