【世界史】東南アジア史を1日3分でマスターしよう!覚え方も紹介!

 

どうも!ケイトです。

突然ですが、東南アジア史って得意ですか?

 

東南アジア史って苦手な人めっちゃ多いんですが、1発でマスターできるように今回は解説をしていきます。

 

みんなが苦手なところをマスターして、合格まで走り抜けましょう!

 

Contents

東南アジア史勉強準備編

なぜみんな苦手なのか

だれもこれも東南アジアが苦手ですよね。これって本当になんでなん?というお話なのですが、これには理由があります。

 

主な理由としては、教科書等に全然ストーリーが入ってないからです。

 

ヨーロッパ史とかは結構詳しく書いてあって、まあ理解しやすいのに、東南アジア史は古代で4ページ、近現代で数ページあるくらいです。

 

しかも人名も全然出てこず、この王朝ができました。そして、この王朝が潰れました。みたいな説明ばかりなんですね。

 

いや、覚えれるかあ!

 

って話なんですよね。でも裏を返せば、因果関係をおさえて、ちょっとでも自分なりにストーリー風にしていけば、覚えやすくなるってことです。ってことで、これから詳しく解説と覚え方も紹介していきますよ。

勉強の流れ

東南アジア史は、地域ごとにタテの歴史をマスターしてから、ヨコをつなげていくという勉強で上手くいきます。

 

このやり方は世界史の勉強の仕方としてはセオリーです。

 

ただ、東南アジア史は教科書にストーリーが入ってないので、時代順に一気に勉強してくのがむずいんです。なぜ、仏教が信仰されたの?とか、チャンパーはどうやってできたの?っていうことに教科書が答えていないんですよね。

 

つまり、因果関係がないのです。なので、タテ、ヨコの順番で勉強していきます。

地域割り

 

地域は6つに分けます。

ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナム、マレー半島、ジャワです。

 

東南アジア史  地域解説

 

それではそれぞれの解説をしていきます。

 

時間がない人は、出てくる王朝と語呂合わせだけ覚えて、ヨコの解説を見て下さい。

 

ミャンマー

ミャンマーに登場するのは

  • パガン朝(11~12c)
  • タウングー朝(16~18c)
  • コンバウン朝(18~19c)

 

この3つの王朝です。ポイントとしては、上座部仏教が栄えたことです。

 

 

パガン朝(11~12c)

 

 

11世紀中頃、ビルマ人が作ったビルマ最初の統一王朝です。

 

先住民であるモン人はスリランカの上座部仏教の文化の影響を受けていたので、パガン朝はそれを取り入れ、首都パガンに多くのパゴダ(仏塔)を建造しました。

 

パガン朝の寺院建築は、マルコ=ポーロの『東方見聞録』にも、

「太陽の光に触れては燦然と輝き、はるか彼方からでもその光輝を望見できる」

美しい大塔のことを伝えています。

 

王たちは仏教に深く帰依し、自ら僧院生活を送り、寺院建築に打ち込んだのです。

 

 

しかし仏塔・寺院の建造に力を入れすぎて13世紀後半には国力は衰亡し、元のフビライはパガン朝に対して四度にわたり従えと命令してきます。

 

ナラティハバテ王はそれを拒絶。

 

そのため元軍は1287年に首都パガンを攻撃して占領、約250年続いたパガンは崩壊しました。

 

ビルマは分裂状態となり、上ビルまではシャン人(タイ系)がモンゴル軍を撃退、

 

下ビルマではペグーを拠点としたモン人のペグー朝が台頭、さらにビルマ人はタゥングーで勢力を盛り返しビルマは分裂状態となってしまいました。

 

その中から次第にビルマ人が優位に立ち、トゥングー朝を建て、まもなくビルマを再び統一するのです。

 

 

 

タウングー朝(16~18c)

 

 

タウングー朝は現在のタイやラオスにまでその版図を広げました。

 

このころ都のペグーは王の仏教保護によって寺院が建設され、最も栄えたのです。

 

しかし、外征に動員された農民に負担がかかってしまい、次第に農村が荒廃して内紛が激しくなり、征服地もまもなく失われてしまいます。

 

 

それまでビルマ人とモン人の融和政策がとられていたが、その対立も再び起こってきてしまうのです。

 

 

そんな中で、17世紀になると、イギリスとオランダがビルマに進出し、ペグーなどに商館を設けて通商を求めてきます。

 

 

それに対して国力を消耗していたタウングー朝の王は、都を内陸のアヴァに移して外国勢力との接触を断ち、鎖国政策をとります。

 

 

下ビルマではモン人の反乱を起こし、ペグーを占領するなど、外圧とともにタウングー朝の衰退を早めることとなってしまいます。

 

 

1752年、タウングー朝は都アヴァをモン人の武装勢力に攻撃されて陥落、滅亡してしまいました。

 

 

ビルマは再び分裂するんですね。

 

 

1757年にアラウンパヤーのコンバウン朝によって三度目の統一期を迎えます。

 

 

コンバウン朝(18~19c)

 

ビルマでは、下ビルマのモン人の対立が続き混乱していました。

 

 

1752年、モン人が反乱を起こしてタウングー朝を滅ぼし、さらに北上してくると、

 

イラワディ川中流のビルマ人を結集したアラウンパヤーがモン軍の進撃を食い止め、

 

同年に出身地コンバウンを都として、コンバウン朝を建てます。

 

そして1757年にモン人の拠るペグー(現在のバゴー)を陥れ、統一に成功しました。

 

また、タイに侵攻し、1767年にアユタヤを焼き討ちして破壊しアユタヤ朝を滅ぼします。

 

このときは、アユタヤを徹底して破壊、数万のタイ人をビルマに連行して労働力として使役したそうです。

 

同じころ、1769年には北方から清の乾隆帝が軍隊を派遣し、侵攻してきます。

 

清は雲南地方を併合して、雲南の兵を主力にビルマ遠征を行ったが、このときもコンバウン朝のビルマ軍は清を撃退した。

 

コンバウン朝は強かったということが伺えますね。

 

19世紀にはビルマの西側に接するインドへの侵攻を開始します。

 

しかしそのころすでにイギリスは、隣接するインドのベンガル地方の植民地化を進めていたので、

 

両者は利害が衝突、イギリスは植民地拡大の好機と捉えて、イギリス=ビルマ戦争が始まります。

 

よく考えたら人のもの取り合ってる構図なんですよね。

 

ビルマは敗北し、85年にコンバウン朝は滅亡し、インド帝国の一州としてイギリス植民地に併合されてしまいました。

 

語呂合わせ

 

 

語呂合わせもやっておきましょう。

 

ピュー、ビルをパガーンと洗うんパヤー

ピュー(ピュー)
ビルマ(ビル)
パガン(パガン)
トゥングー(と)
アラウンパヤー(洗うんパヤー)
【↑コンバウン】

 

タイ

ドヴァーラバティ王国(7~11c)

スコータイ朝(13~15c)

アユタヤ朝(14~18c)

ラタナコーシン朝(18c~)

ポイントとしては、上座部仏教、港市国家です。

 

ドヴァーラバティ王国(7~11c)

7世紀頃、現在のタイに現れた最初の国家です。

 

しかしタイ人が建てたのではなく、タイからビルマにかけて活動したモン人の建てた国なんです。

 

モン人って?ってことなんですが、

 

ミャンマーとタイで活動していた民族です。ビルマ人と対立しました。

 

インドとの交易が盛んで、上座部仏教を信仰しました。

 

港市国家というのは、ルート上の要地に商品の集積、積み替え、風待ち、水や食料の補給などをする港市が国家に発展したものです。

 

スコータイ朝(13~15c)

 

13世紀後半~15世紀に、現在のタイにあった王国です。もともとタイ人は、中国に住んでいましたが、11~13世紀にインドシナ半島に移住し、先住民と同化しながら定住します。

 

はじめカンボジア(真臘)のアンコール朝に従属していましたが、1257年ごろにスコータイを都としてスコータイ朝を起こします、

 

第3代のラームカムヘーン王の1283年に、カンボジアの文字をもとに独自のタイ文字をつくるのです。

 

アンコール朝から独立したということで、カンボジア色が強いのが特徴です。

 

また上座部仏教が保護され、仏教遺跡が多いんですよ。

 

1350年、南のアユタヤにアユタヤ朝が起こると次第に衰退し、15世紀には地方政権として存続するだけとなってしまいます。

 

アユタヤ朝(14~18c)

 

タイ人がチャオプラヤ川下流のアユタヤを中心に1351年に建国しました。

 

その後、米・獣皮・象牙・綿花・香辛料などの輸出を盛んに行い、インドと、さらに中国とも交易を行ったので港市国家ですね。

 

また上座部仏教を保護し、都のアユタヤをはじめ各地に仏教寺院が建設されました。

 

その勢力は1432年に東のカンボジア(アンコール朝)を壊滅させるほど強大で、

 

1438年には北方のスコータイ朝を併合してしまいます。

 

16世紀からはポルトガルとの交易が始まります。

 

1569年には西のビルマに起こったトゥングー朝に侵攻され、15年間その支配を受けたが、16世紀末には独立を回復し、逆にビルマに侵攻します。

 

やられたらやり返すみたいなね。

 

アユタヤは国際商業の中心地として栄え、日本町も建設されたのです。

 

17世紀中頃まで、オランダ、フランスも加えてさかんに貿易が行われ、

 

1680年代には親フランス政策をとりルイ14世の宮廷に使節を派遣したりもしました。

 

しかし!

 

18世紀にはいると外国勢力が強くなってきたことに危機感を持った王が鎖国政策をとるようになります。

 

1752年にビルマを統一したコンバウン朝が勢力を強め、再び隣接するタイに侵攻。

 

1767年、アユタヤの王宮はコンバウン軍に破壊され、アユタヤ朝は滅亡してしまいます。

 

ラタナコーシン朝(18c~)

タイ(シャム)の現在の王朝です。

 

今まで長いこと続いています。

 

アユタヤ朝の再興を目指した国として知られ、欧米列強の植民地にもならず、独立を保ちました。

 

独立を守った英雄的な王様がラーマ5世という人物。

 

ラーマ五世は近代化政策をとり、同時にイギリスとフランスの両勢力をうまくバランスをとりながら交渉し、東南アジアで唯一、植民地化を免れたのです。

語呂合わせ

どすこい歩めば国技館、行進

ドヴァーラバティー(ど)
スコータイ(すこい)
アユタヤ(歩めば)
ラタナコーシン(国技館、行進)

 

 

カンボジア

 

  • 扶南(1~7c)
  • 真臘/カンボジア王国(6c~)

 

ポイントとしては、「インド化」です

 

 

扶南

 

東南アジアで最も早く成立した王朝です。

 

扶南王国はインド人バラモンの王子が、南方からやってきて、柳葉という名の女リーダーと結婚した、という建国神話があります。

 

扶南のポイントとしては、「インド化」ですね。

 

4~5世紀にヒンドゥー教・シヴァ神信仰・サンスクリットなどを取り入れました。

 

しかし、7世紀、メコン川上流に起こったクメール人の国である真臘(カンボジア王国)に征服されてしまいます。

 

また、オケオという港からは、インドの仏像やローマ帝国の鏡が出てきています。ここから東西交易が盛んだったことが分かっています。オケオという地名は扶南とセットで覚えておきましょう。

 

真臘

7世紀に扶南を滅ぼし、カンボジア王国を建設しました。「真臘」とは中国名です。

 

この国もヒンドゥー教とシヴァ神信仰を受け入れ、インドの文字を取り入れたクメール文字を使っていました。

 

9世紀以降はアンコール朝のもとで全盛期となります。アンコールワットは有名ですね。

 

 

しかし、13世紀になるとアンコール朝王室の内紛が起こり、またまたタイに圧迫され、衰退していきました。

 

17cくらいからカンボジアはもうずっと板挟み。西のタイと東のベトナムに支配されていました。特にタイ。

 

ヨーロッパがアジアに進出してくるようになると、イギリスにちょっかいを出されます。耐えられなくなったカンボジアはベトナムに進出していたナポレオン3世のフランスと結びます。

 

しかし、これが間違いでした。フランスはカンボジアに進出してきて、保護国にされてしまいます。

語呂合わせ

 

プーちゃん心労アルコール

扶南(プー)
チャンパー(ちゃん)←ベトナム南部ですが、カンボジアと距離が近いので・・・
真臘(心労)
アンコール(アルコール)

 

チャンパー

チャンパーは17cごろまで存続した長生き国家です。ポイントはヒンドゥー教です。

 

 

始めこの地方は漢の支配下でしたが、後漢時代に独立します。この時の国名が林邑です。

 

このころから東西を結ぶ海上交通の要地にあったため港市国家として発展し、中国とも交易が続いて栄えます。また、3世紀ごろから「インド化」が進み、国名がチャンパーになります。

 

チャンパーの面白いところは、名前を変えながらずっと存続している点ですね。宋の勉強をすると、占城米がでてきますが、占城はチャンパーのことなんです。

 

占城米は乾燥に強いお米だったので、バカ売れしました。

 

また、チャンパーはインド色が強い国だったので、ヒンドゥー教が有名です。

 

 

ベトナム

 

ベトナムでは

・李

・陳

・黎

・西山

・阮

が登場します。

 

中国色が強いのが特徴ですね。

 

李朝

 

秦漢時代からつづく中国王朝のベトナム支配をようやく終わらせたのが1009年にベトナム人の李太祖(李公蘊)がひらいた李朝です。

 

李朝は、1054年に国号を大越国としました。中国から独立したので、特徴は中国色が強いです。

 

科挙を導入し官僚制を整備、また儒教・仏教・道教をともに保護しました。

 

李朝の軍はそこそこ強くて、1075年に宋の神宗が大越国遠征を行った時、李朝はそれを撃退しています。

 

その後は宋と対等な外交を展開しています。

 

 

陳朝

 

外戚であった陳氏が王位を奪って1225年に建てた王朝が陳朝です。外戚というのは母方の親戚のことですね。

 

陳朝は13世紀にモンゴルの三度にわたる侵攻と戦い、独自のベトナム文化を創り上げたことで有名です。

 

元に対する闘いの中から次第に民族意識を強め、その領土を広げていきました。そのような民族意識が高まりの中で、ベトナム独自の文字である字喃(チュノム)ができるわけですね。

 

 

黎朝

15~18世紀のベトナムの王朝で、国号は大越国。都は東京(トンキン)と称した現在のハノイにおかれます。

 

実は陳の後に胡朝ができるのですが、明は胡朝がベトナム大越国の王位を奪ったことに対し、怒って、陳朝の復興を支援するという口実でベトナム遠征軍を派遣します。

 

そうして、胡朝を倒し、ベトナムを実質的な支配下に収めます。明は府州県制を布き、ベトナムの伝統を否定して中国風の制度、文化を強要するのです。

 

そのため、まもなくベトナム民衆の反明感情が強まりますよね。そうして、地方豪族の黎利(レ=ロイ)が1418年に挙兵します。

 

レ=ロイは明に見事勝利し、独立を回復することに成功しました!

 

始めは陳朝の王をたてたのですが、その王が自ら退いたため、1428年に黎利が王位に就き、明もそれを承認して黎朝の成立となります。

 

独立を達成した後の黎朝は明に対して朝貢を開始して良好な関係を結び、その制度や文化を取り入れます。

 

科挙制度や儒学の興隆に力を入れましたし、朱子学も振興しました。

 

15世紀後半の聖宗と時には黎朝の統治も安定し、ベトナム人が屯田兵として中部ベトナムにも進出していきました。

1471年にはあのチャンパーの首都ヴィジャヤを占領して事実上滅亡に追いこみますが、16世紀には短命の国王が続いて次第に王権が衰えていき、有力な武将が実権を握るようになります。

 

西山朝

 

短命な王がつづき、分裂状態が続くベトナムで、南部の阮氏の圧政に反発した西山(タイソン)の阮氏三兄弟が、1771年に西山の乱(タイソンの乱)を起こし自立します。(この阮氏は南部阮氏とは血縁関係はないです)。

 

三兄弟の長男阮文岳が1778年に王を称して西山朝を建てました。

 

また、黎朝の系統を復活させさせる口実で介入してきた清軍をハノイ近郊で破り、ベトナムを統一するとともに独立を守りました。

 

中国って結構復興を口実に攻めてきますね。笑

 

しかし、西山朝は三兄弟がケンカするようになり、内紛が生じます。

 

そんな中で南部阮氏政権の生き残りの阮福暎(西山の乱で攻撃された方の阮氏)がフランスの援助によって勢力を盛り返したため、西山朝は1802年に滅ぼされます。

阮朝

 

ベトナムの全土を最初に統一した王朝であり、同時にベトナム最後の王朝でもあります。清を宗主国として仰ぎ、国号をベトナムの漢字表記である越南にしました。読み方はエツナン。

 

都は阮氏政権以来の拠点、中部ベトナムのフエに置きます。

 

阮朝は宗主国である清朝の制度を取り入れ、科挙などを整備しました。ただし、阮朝はその成立の時にフランスの支援に依存したり、清を宗主国とせざるを得なかったり、完全な独立国家となるには弱々しく、建国以来半世紀ももたず、フランスに国土を奪われ、植民地化していきます。

 

植民地化

 

阮朝のベトナム統一をフランス人宣教師であるピニョーが援助したことから、フランスはベトナムに強い関心を抱き、進出をねらっていました。

 

19世紀中ごろ、アジアに対するヨーロッパ列強の進出が活発となり、1840年にはアヘン戦争が起こります。

 

アヘン戦争の復習大丈夫ですか?

 

この情勢を見た阮朝はやべえと思い、キリスト教禁止を打ち出し、鎖国体制をとるようになります。

 

その経過でフランス人とスペイン人の宣教師が殺害されるという事件が起こります。

 

宣教師殺害事件に対する賠償と開国を要求したフランスのナポレオン3世は、1858年にダナンを砲撃し、インドシナ出兵を開始し、フランス=ベトナム戦争(仏越戦争)となってしまいました。

 

その結果、フランスは1862年のサイゴン条約で南ベトナムの一部コーチシナを獲得するのです。

 

ナポレオン3世没落後の第三共和政の時代にもフランスはベトナム侵略を続け、1873年にハノイを占領。

 

阮朝政府に対してフランスの実質的な保護国化を認めさせ、植民地にしていきます。

語呂合わせ

リンチを命令痛いよグエッ、ナムナム

李(リン)
陳(チ)
明(命)
黎(令)
西村(痛いよ)
阮(グェ)
ベトナム(ナムナム)

スマトラ半島

 

 

スマトラでは

 

・シュリーヴィジャヤ王国

・マラッカ王国

・アチェ王国

 

シュリーヴィジャヤ王国

 

スマトラ島東南部からマレー半島にかけて、7世紀頃から繁栄したマレー人の王国です。扶南に代わって東南アジアの貿易の中心として繁栄した港市国家でした。

 

最盛期の7世紀にはジャワ島やタイなどにも勢力に及びます。自国領には主たる産物はなく、中継貿易を行っていました。

 

また唐から宋にかけて、定期的に中国に使節を送り、朝貢していたことが判っています。

 

671年に唐の僧侶義浄がインドに赴く途中、シュリーヴィジャヤに滞在したんですよ。

 

彼の著作『南海寄帰内法伝』には、この「室利仏逝国」には千人もの僧侶がいるということが書いてあります。

 

また7世紀に東隣のジャワ島に起こった同じ仏教国のシャイレンドラ朝とは関係が深かったそうです。

 

その後、1025年には南インドのタミル人国家チョーラ朝の侵攻を受けて次第に衰退します。14世紀にジャワ島東部にマジャパヒト王国が起こり、その勢力が及ぶとほとんど消滅。

 

シュリーヴィジャヤの支配権は15世紀にイスラーム教国のマラッカ王国に引き継がれていきます。

マラッカ王国

マラッカ王国はマレー半島からスマトラ島の一部を支配したマレー人国家で、マラッカ海峡に面した港市国家として繁栄しました。

 

交易に有利な地点を占めたことから、マラッカ王国は周辺の民族を取り込んで、勢力を強めました。

 

しかし、そのころ有力であったタイのアユタヤ朝には服従します。

 

15世紀になると中国の明の使節が来航。朝貢を求めるようになりました。マラッカ王国も鄭和の来航を期に急成長します。

 

ジャワ島のヒンドゥー教国マジャパヒト朝と対抗してその商業活動を抑え込み、インド洋と南シナ海の中継貿易を行い、東南アジア最大の貿易拠点として繁栄します。

 

鄭和の来航でマラッカ王国での交易が活発になると、ムスリム商人との交渉も活発になります。そうして、このころからイスラーム教が急速に広がりました。

 

しかし、明を後ろ盾にしていたが、明が衰退しまいます。

 

アユタヤ朝から身を守るために、王はイスラームに改宗して、イスラムを味方につけます。

 

マラッカ王国がイスラーム化したことによって、ムスリム商人の東南アジアでの活動がさらに盛んになり、東南アジアのイスラームがさらに進むことになりました。

 

アチェ王国

 

15世紀終わりごろスマトラ島の北西部に独立したイスラーム国家を作りました。このアチェ王国は、スマトラ南西部やマレー半島にも進出し、マラッカ王国と対抗しました。

 

16世紀にはマラッカを制圧したポルトガルとも対抗。

 

イスラーム商人の交易ネットワークを築いて強大な勢力となります。

 

またスマトラ島の胡椒を占領。イギリス、オランダとの交易で利益を上げました。17世紀後半。オランダ東インド会社がこの地域での交易に乗り出してきます。

 

18世紀を通じてオランダは、現在のインドネシアの諸島に対する植民地化を進めていき、オランダ領東インドを形成していきました。

 

オランダとイギリスとの抗争の末、スマトラ島はオランダ、マレー半島はイギリスの植民地になります。

 

オランダはスマトラ島で抵抗する人々をを排除していき、スマトラ南西部の制圧後、北部のアチェ王国の制圧に乗り出します。

 

抵抗する人々とオランダとの戦争、アチェ戦争、の結果、アチェ王国はオランダ領に編入されてしまいました。

 

現在はインドネシア領です。しかし、1950年代から独立運動をしています。

 

植民地時代

 

1498年、バスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに到着し、ポルトガルのアジアへの進出が始まりますね。

 

インドのゴアを占領したインド総督はマラッカの王宮を武力攻撃し占領します。

 

マラッカ王は抵抗したが王宮を逃れ、マレー半島の南を転々とした後、南端のジョホールにたどりつき、そこにジョホール王国を建てます。

 

マラッカ王国は結果的に滅びますが、その後身のジョホール王国のスルタン位は現在のマレーシア連邦でも受け継がれています。

 

ポルトガルのマラッカ支配は交易拠点としてだけで、広い地域を支配するものではありませんでした。

 

そのため、マラッカの拠点も孤立化。

 

オランダが進出してポルトガルを追い出し、東インド会社の支配下に収めます。やがて東南アジアの支配権をめぐるオランダとイギリスの抗争の舞台となります。そしてオランダがフランスに占領されたナポレオン戦争中にイギリスが支配権を奪います。

 

イギリス=オランダ協定によりマラッカのイギリス支配、替わりにオランダはスマトラ島を獲得しました。

 

イギリスはこの地を海峡植民地の一つに加えるのです。

 

 

マラッカ王国はマレー半島とスマトラ島にまたがる一つの国をマレー半島がイギリスへ、スマトラ島がオランダへと分断されて植民地化されてしまいました。

 

マラヤ連合州って?

 

マレー半島(マラヤ)は19世紀にイギリスの植民地となってゆき、イギリス領マラヤが成立します。

 

そこでは、スズ鉱の開発に始まり、ゴム園、鉄道の開設がイギリス人の手によって経営的に完成しました。

 

マレー半島って色んな民族がいるんですよね。

 

違いというのは、使い方を誤ると争いを導きます。彼らの場合は抑圧されることで、仲間割れが始まります。

 

4つの小国では鉄道が敷設されます。ゴム園も鉄道沿線に開かれて、イギリスの市場と直接結びついて発展します。

 

この4カ国はイギリスの傘下に入り、協定によってマレー連合州となりました。これはイギリスの保護国です。

 

一方で海峡植民地というのは、直接支配している場所のことです。違いを押さえておいてくださいね。

 

語呂合わせ

 

スマートな守備じゃん?まー落下!あちゃ〜

スマトラ(スマート)
シュリーヴィジャヤ(守備じゃん)
マラッカ(まー落下)
アチェ(あちゃー)

 

ジャワ

 

ジャワは

・シャイレンドラ王国

・マジャパヒト王国

・マタラム

が登場します。

 

 

シャイレンドラ王国

 

 

インドネシアのジャワ島中部の王国で、大乗仏教が保護されていました。仏教寺院であるボロブドゥールはすごく有名ですね。

 

また、港市国家として栄えます。

 

また同じ8~9世紀のジャワ島中部にマタラム王国(古マタラム王国)というヒンドゥー教を信奉する国があり、プランバナンという石像のヒンドゥー寺院を作ってます。あとででてくるマタラム王国とは別です。

 

 

マジャパヒト

 

元軍が攻めてきたタイミングで、マジャパヒト王国が成立します。

 

15世紀にはマラッカ海峡を抑えたマラッカ王国が台頭し、東南アジア海域の交易をめぐって抗争します。

 

マジャパヒト王国はヒンドゥー教国でした。しかし、16世紀にイスラーム教のマタラム王国が同じジャワ島の西部に成立すると次第に劣勢になっていきます。

 

マタラム

 

ジャワ島は、16世紀後半にポルトガル人、7世紀初めからオランダ人、イギリス人が来航して、香辛料などの貿易を巡って激しく争っているような場所でした。

 

争いは熾烈でしたが次第にオランダが優勢になります。

 

17世紀には、オランダ東インド会社が、ジャワ島西部のジャカルタを占拠してバタヴィアをつくります。

 

マタラム王国は、それが嫌で対抗していきます。対抗が進むと仲間割れも起こしていきます。

 

東インド会社の支配はどんどん強まり、会社の解散後はオランダが直接支配するようになりました。

 

人々はジャワ戦争を起こすも失敗し、オランダは強制栽培制度を導入します。コーヒー、サトウキビ、藍などの商品作物を強制的に栽培させられたのです。

 

 

語呂合わせ

シャワーの写真がマジたまらん

ジャワ (シャワー)
シャイレンドラ(写真)
マジャパヒト(マジ)
マタラム(たまらん)

 

ヨコを繋げよう

ちょっとした理解があると、ヨコのつながりのマスターもスムーズです。

 

全体的な流れ

 

 

全体的な流れとしては、インド化、イスラーム化、植民地化、独立です。例外はありますが、おさえておきましょう。

 

1~7世紀

 

グプタ、扶南、チャンパーが登場します。特徴もできるだけセットでおぼえましょう。

 

 

8~14世紀

たくさん登場しますね。

 

ポイントはインド化した国(ヒンドゥー教)、北の方の国(上座部)、南の方の国(大乗)という風に押さえておくことです。

 

一気に覚えるのは難しいので、少しずつやりましょう。

 

15~21

 

島国がイスラーム化していきます。

 

植民地

ミャンマー、マレー半島はイギリス、ベトナムはフランス、ジャワとスマトラはオランダです。

 

 

まとめ

 

いかがでしたか?

1日3分ずつ読んでいけば、必ず東南アジアマスターをマスターできます。根気よくいきましょう!

 

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それでは!

 

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