どうも!ケイトです。
今回は、ウィーン体制って結局何?っていうお話をしていきます。1分でサクッと確認していきましょう!
Contents
ウィーン会議

時はフランス革命後、1814年から翌年にかけてウィーン会議がひらかれました。
議題は「どうやって元の状態に戻すか?」でした。
王政であるフランス以外の国では、フランスでの王の処刑をこれまで見て、王様は次は自分の首が飛ぶのではないかビクビクしていました。
この会議を主導したのは、オーストリアの外相、メッテルニヒです。
また、フランスの外相タレーランは革命前の状態に戻そう!という正統主義をかかげて、ブルボン朝を復活させました。
それからというもの、列強間の同意に基づいて、国際秩序の再建が図られます。
ロシア皇帝はポーランドの国王も兼ね、
ドイツ連邦が組織、
イギリスはスリランカとケープ諸島をゲットし、
オランダはベルギー、オーストリアは北イタリアをゲット。
スイスは永世中立国となります。
ウィーン会議の結果、フランス革命によって広まった自由主義とナショナリズムは抑圧される形になりました。
この「元に戻そうとする」国際体制のことを、ウィーン体制といいます。
この状況下で力を持ったのは、イギリスとロシアでした。イギリスはその繁栄と海軍力で、国際的に平和を保ちました。(パックス・ブリタニカ)
巨大な陸軍を持つロシアは、アレクサンドル1世が神聖同盟を提唱し、さらにイギリス、プロイセン、オーストリアを集めて四国同盟を結びました。
これはどちらもこのウィーン体制を維持するための同盟でした。
各地で反乱

この体制下では各地で反乱が起こりまくりました。ざっと挙げるだけでも
ドイツ→ドイツの学生組合(ブルツェンシャフト)の改革要求
イタリア→秘密結社カルボナリの蜂起
ロシア→貴族の青年将校が蜂起(デカブリストの乱)
フランス→七月革命
ギリシア→独立
ラテンアメリカ→独立運動
ベルギー→オランダから独立
ポーランド→蜂起
こんな感じ。
そりゃ、自由が目の前に見えていたのに、それを抑圧されて今までの生活に戻せって言われたら腹立ちますね。
反乱はすぐに鎮圧されたものの、反自由的な政策に賛成する人はだんだん少なくなり、オーストリアとドイツがウィーン体制の中心になっていきました。
ドイツの統一

ドイツ連邦
フランス革命が終わり、王政に戻したいオーストラリアは、「ドイツ系の国は団結しよう!」と呼びかけ、ウイーン会議を経て、ドイツ連邦を組織しました。
この中には、オーストリアやプロイセンなどの35の君主国、ハンブルクなどの4自由都市が含まれています。
ドイツ連邦は国と言うよりも、君主国で構成される同盟に近い組織です。
大ドイツ主義 小ドイツ主義
ドイツ連邦では、だれがリーダーとなり、どのように統一するかでもめていました。
案は2つ。オーストリアを含むドイツ人地域とベーメンを含め広く統治していく、大ドイツ主義、
オーストリアを除いた地域で構成する小ドイツ主義です。
オーストリアは大ドイツ主義に反対します。
なぜなら、彼らの支配国が含まれていなかったからです。そのため、小ドイツ主義で進めることになり、憲法を作り、プロイセン王にドイツ皇帝をお願いします。
しかし、プロイセン王はまさかの拒否です。自由主義な憲法も嫌だったし、その国王なんてとんでもなかったからです。
プロイセンとオーストリアの主導権争いは続きます、プロイセンではビスマルクが首相となり、軍備の拡張が行われ、頻繁にオーストリアと戦争するようになりました。
結果、ドイツ連邦は解体されてしまいました。
イタリア統一
イタリア統一については、以下の記事で紹介しています。点数とれたらアドバンテージになります。
簡単に説明していきましょう。
イタリアの状態
イタリアはずっと統一されずに分裂していた国でした。イタリアの中にある都市国家がそれぞれ運営していたんですね。
周りの国からは、いつも介入があり、イタリアの取り合い戦争であるイタリア戦争が起きたりもしました。
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https://yamatake19.exblog.jp/17301446/
イタリアに変化が起こる前の図ですね。イタリアは、大きく分けて北部、教皇領、南部に分かれていました。
青年イタリア
イタリアの統一と共和政を目指す「青年イタリア」という団体がいました。リーダーだったのはマッツィーニという人物です。
ウイーン体制真っ只中、彼らの運動はやがて激しくなりました。1848年の二月革命後、民衆蜂起も盛んになり、ローマ共和国が建設されました。
しかし、ルイナポレオン率いるフランス軍に介入を受け、ローマ共和国はやむなく倒されてしまいます。
サルデーニャ王国というイタリア北部の王国も、介入してこようとするオーストリアと戦いますが、敗北してしまいました。
イタリア統一戦争
しかし、サルデーニャ王国は、憲法や議会をオーストリアに負けても維持しました。
王であるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のもと、自由主義者のカヴールという人物が首相しなりました。彼は、インフラの整備を推進しました。
そんなサルデーニャのもとに、フランスが歩み寄ります。「あなたもオーストリア嫌いでしょ?一緒に倒さないか?」とナポレオン3世は言いました。
「確かにイタリアを統一したいのに邪魔ばっかりしてくるので、倒せたらいいな」とカヴールは思いました。フランスもオーストリアはライバルだったので、サルデーニャ王国に協力を求めたのでした。
二人は密約を交わし、サルデーニャ王国はオーストリアと開戦しました。(イタリア統一戦争)
しかし、ナポレオン3世は途中で気が変わり、オーストリア側につきました。「戦争の長期化を恐れたのと、やっぱりイタリア統一して欲しくないな」と思ったからでした。
友達にやられたら腹立ちますね(笑)
ナポレオン3世は勝手にオーストリアと講和し、イタリアのサヴォイアとニースをフランスにゆずることになりました。カヴールはぶち切れて首相を辞めたそうです。
しかし、中部イタリアをサルデーニャ王国に併合し、戦争でロンバルディアを得て、統一までもう少しというところまで来ることができました。
イタリア王国

「青年イタリア」出身のガリバルディという人物が、イタリア統一に一役買いました。両シチリア王国を占領し、それをサルデーニャ王国に譲ったのです。一歩間違えれば戦争になったところを、身を引いて譲ったことが賞賛されていますね。
この結果、イタリアは統一され、イタリア王国が成立しました。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が王となり、その後はヴェネツィア、ローマ教皇領も併合して、国家統一を果たしたのです。
ただ、トリエステ・南チロルなどは、オーストリア領のままだったため、「未回収のイタリア」と呼ばれる問題になっていきます。
まとめ
いかがでしたか?
ウィーン体制についてざっと説明しました。この知識を元に、今後の勉強も頑張って下さいね!
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それでは!
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