【永久保存版】第二次世界大戦を分かりやすく!会談の覚え方も!

どうも!ケイトです。

 

第二次世界大戦って説明すべき事が多くてこんがらがってきますよね。

 

今回は、第二次世界大戦を分かりやすく解説し、あなたに完全にマスターしてもらおうと思います!

 

Contents

世界恐慌

世界恐慌とは

世界恐慌というのは、1929年10月にニューヨークのウォール街で株価が大暴落し、アメリカの大不況が世界中に伝播した出来事のことです。

 

アメリカでは、工業生産の急落、企業の倒産、商業不振、銀行閉鎖、25%が失業など、空前絶後の大不況に見舞われました。

株価の暴落の原因

 

なぜアメリカで株価の暴落が起こったかを説明していきましょう。

 

 

当時アメリカは、世界中にお金を貸していた債権国でした。第一次世界大戦で戦費を使いまくってしまったイギリスやフランスにも貸していました。

第一次世界大戦を分かりやすく!原因から結果、覚え方まで!

 

そうすると、お金は利子つきで返ってきますから、どんどんアメリカにお金が集まってきますね。

 

お金を持った人々は、投資をどんどんしていきます。ほとんど初心者みたいな人でも投資をするようになりました。シンプルに言ってしまえば、安いときに買って高いときに売れば儲かりますよね。

 

さて、どんどん投資がなされると、その会社の株は上がっていきます。高くても買ってくれるくらい人気になるからです。

 

しかしプロの投資家たちは、湯水のようにつぎ込まれていくお金を見て、「これ回収できんかったらどうしよう」と不安になっていきます。

 

そこで「じゃあ株価が下がらないうちに(損をしないように)、今のうちに売ってしまおう」といって、株を一気に売り始めました。

 

ただ、これが一人だけならまだいいものの、投資家みんながやり始めたのです。

 

一斉にみんなが株を売ったらどうなるでしょう。当然、人気が急落するので株価も急落です。これが株価の暴落の仕組みですね。高いお金で買い、まだ売っていなかった人は大損害です。

 

しかも、企業に投資をしていた銀行に、預金を引き出そうとする人が殺到し、お金がない銀行は倒産。銀行がなくなれば、融資もなくなり企業も倒産。企業がなくなれば、みんな失業というわけです。

 

各国の対策

アメリカ

 

アメリカでは1932年の選挙で、民主党のフランクリン・ルーズベルトが大統領に選ばれ、この大不況をなんとかしようと奮闘します。

 

彼がやったこととして有名なのが、ニューディール政策(新規まき直し)と呼ばれる経済政策です。

 

シンプルに言えばこの政策は、どんどんお金をすって社会に流す政策です。

 

まず、金本位制を離脱して、お金の発行をしやすくして銀行を救いました。金本位制というのは、金と貨幣の発行量を釣り合わせる制度のことです。

 

また、農業調整法で農産物の価格を上げて、社会に流したお金でそれを買ってもらえるようにして、農民の生活を安定させ、

 

全国産業復興法でも、同じような仕組みで商業に関わる人達の生活を安定させました。

 

テネシー川流域開発公社は公共事業を行って、社会にお金を流すと共に、事業のために雇用を増やして失業者を救いました。

 

また、ワグナー法では、労働者の団結権、交渉権を認め、その結果産業別組織会議(CIO)という労働組合もできました。

 

外交面では、ドル経済圏に近隣の国を組み入れる善隣外交が行われ、少しでも貿易をしようと奮闘しました。

 

これらの政策により、国民の不安は少し和らぎましたし、民主主義を守ってファシズムと対抗したということから意義は大きかったとされています。

 

政策や法の名前がいっぱいでてきましたが、頑張って覚えておきましょう。

 

ドイツ・日本・イタリア

 

後の枢軸国となること三国は、軍部主導による全体主義的な国家体制が行われ始めていました。そして、ファシズムが生まれていきます。

 

 

 

ファシズムとはずばり、独裁政治のもとで議会制民主主義が否定され、軍事警察が国民の権利や自由を抑圧するような国家体制のことです。

 

 

ファシズム国家のもとではナショナリズムが強調されます。国家元首への敬礼、国旗や国歌への拝礼の強要されるのです。

 

 

これは国益が優先されるからなんですね。その結果、国民の人権や自由は奪われます。

 

それゆえファシズムは「全体主義」とも言われます。個人よりも、全体の秩序や利益って言う訳です。

 

ファシズムが見られた国家として有名なのが、ご存知の通り、イタリアで、ムッソリーニが結成したファシスト党ドイツのヒトラーのナチ党、日本型ファシズム(天皇制)国家ですね。

 

日本は、天皇を崇拝させ、軍事が政権を握ったという形ですね。「○○しません。勝つまでは」とか全体主義の代表ですね。

 

ドイツ、イタリア、日本のファシズムはそれぞれ若干違うのですが、国民の抑圧や軍事警察という点でどれもファシズムであると言えます。

 

それではなぜこのような恐ろしい国家体制が生まれてきたのでしょうか?なぜ、ドイツ、イタリア、日本の3国なのかというのも気になるところですよね。

 

 

世界恐慌は世界中の国の経済に悪影響をもたらしたわけですが、お金や土地を持っている人と、ほとんど何も持っていない人だったらどちらが影響が少ないと思いますか?

 

 

もちろん、お金や土地を持っている人ですよね。国で言えば、イギリス・フランス・アメリカです。彼らは「持てる国」とも言われます。

 

一方で、後発組というか、帝国主義に乗り遅れて、お金も土地もあまり持っていない国、ドイツやイタリア、日本というのは、「持たざる国」と言われます。

 

 

そこで「持たざる国」である彼らは考えます。

 

これを機に、「持てる国が中心のヴェルサイユ体制・ワシントン体制をぶっ壊し、軍事力で他国を圧倒して、自分らの名を知らしめてやろう」と。

 

 

そのためには1つの国で国民が団結する必要があります。

 

そこで、世界恐慌による経済不況に苦しめられた中間層の多数派に対して、

 

今までのような議会制の権力はだめだ!世界を変えるために社会革命を起こすことが必要なんだ!

と呼びかけ、彼らを取り込みました。

 

 

また、人というのは自分らと違う人がいると団結しやすくなり、そして自分らと違う人を排除したくなる心理を持っていますから、

 

ファシズムでは、ナショナリズムを強調し、「俺たちは優れたアーリヤ人だ!ユダヤ人は屑だ!追い出せ!」ととんでもないことを呼びかけたわけです。

 

 

当初は、ファシズムを危険視する党や資本家も多かったのですが、共産主義革命を抑えるのにめっちゃ便利だと気づいてしまい、容認するようになりました。

 

 

特にお金持ちは、共産主義下になってしまうと財産を奪われてしまうので、わからんでもないですが、ファシズムは間違ってますね。

 

 

人は切羽詰まると正しい判断ができなくなりますし、そこにカリスマ的なリーダーがいると従いたくなります。特にヒトラーはカリスマ的存在として国民の目に映り、支持を集めました。

 

植民地や資源を持たない「持たざる国」は武力で他より秀でようともがき、第二次世界大戦へと発展していくわけです。

 

イギリス

 

イギリスでは、労働党、自由党、保守党が合わさった挙国一致内閣が財政削減、金本位制の停止を行います。

 

また、オタワ連邦会議を開いて、イギリス連邦内だけ関税を下げて、貿易をしやすくし、部外者を閉め出すような政策をとりました。

 

このような身内だけで貿易をするような経済をブロック経済といい、イギリスでは「スターリング=ブロック(ポンド=ブロック)」といいます。

 

フランス

 

フランスでも同じようにブロック経済政策が行われ、それを「フラン=ブロック」といいます。

 

また、ドイツなどのファシズム国の脅威を感じ、ブルムという人物を主唱し、反ファシズムを掲げる人民戦線内閣が生まれました。

 

第二次世界大戦へ

 

ドル・ポンド・フランなど、一つの通貨を軸としたブロック経済がいくつも生まれ、そこに入れない国々は不満を募らせました。

 

しかも、ブロック間でも対立が激化し、貿易が頼りである企業は苦しむことになります。

 

このブロック経済は第二次世界大戦の原因の一つであるとされています。

 

ヴェルサイユ体制崩壊

ナチ党

世界恐慌は世界各地に影響をもたらしましたが、中でも被害が大きかったのは「ドイツ」でした。

 

社会不安でいっぱいになったドイツでは、ナチ党という反議会勢力が台頭してきます。

 

ナチ党とは、ヒトラーというリーダーシップあふれるカリスマを指導者とした政党で、正式名称は「国民国家社会主義ドイツ労働者党」といいます。

 

ヒトラーは、元々画家でしたが、勉強が好きな青年でした。しかし、色々な本を読んでいる内にある考えが浮んできます。

 

我々アーリヤ人は優れている。ドイツが負けたのはユダヤ人がいたからで、ユダヤ人はその邪魔でしかない。彼らを消して、アーリヤ人の大帝国を作り上げよう!

 

WWⅠで従軍していたヒトラーは、ドイツの敗戦はロシア人、共産主義、ユダヤ人の陰謀だと思い込んだのです。この歪んでイカレた考えが、後に大惨事を引き起こしていくわけです。

 

さて、ナチ党の台頭で国会は機能麻痺に陥ります。世界恐慌の被害がさらに大きくなって、失業者が増えると、「あの新しい政党に賭けてみよう」という農民や都市の労働者が増え始めました。

 

ヒトラーは演説が激ウマでした。鏡を見て、身振り手振りを練習していたという話は有名ですね。そのかいあって、彼の大衆宣伝に心を動かされる人が増えていきました。

 

やがてナチ党は第一党となり、ヒトラーは首相となります。さらに、国会議事堂を放火して、共産党に濡れ衣を着せて、ナチ党以外の政党を解散させます。

 

そして、全権委任法という法律をつくり、政府が立法できるようにしました。

 

もう、やりたい放題

 

こうして、ナチ党は一党独裁を実現します。

 

 

基本的人権や市民的自由は統制されましたが、当時のドイツ人は「あの頃は良かった」と話す人も多いようですね。

 

なぜなら、アウトバーンという高速道路の建設や、軍需工業の拡張、レジャー施設を建てたり、福祉事業も整備、さらにラジオが普及したことで、失業者も減り、生活が豊かになったためです。

 

ただ、大統領になったヒトラーは、アーリヤ人以外を劣遇します。

 

ゲシュタポ(秘密警察)、SS(親衛隊)、SA(突撃隊)という部隊で監視をし、ユダヤ人や、ユダヤ人に協力した人々を、強制収容所にぶち込みました。

 

ヴェルサイユ体制崩壊

 

国内を完全に支配したナチスは、国連から脱退し、条約などの制約から抜け出します。

 

ここから、ヒトラーの戦略が始まっていきます。WWⅠ、世界恐慌を経験し、周りの国はみんな戦争なんかしたくないわけです。

 

それを知りながらドイツは、国として自由を得るために、要求レベルを1つずつ上げていきます。

 

ヒトラーのお願い

1933    賠償破棄   お金の約束

1935    再軍備    軍事の約束

1936    ライラント進駐  初の軍事行動

1938    オーストリア統合  ドイツ系の人が多い

1938    ズデーテン地方統合  ドイツ系の人が多い 最後のお願い

 

1939    チェコスロバキア統合  違う民族

1939    ポーランド回廊統合  違う民族

WWⅡへ

 

小さなお願いをした後で、大きなお願いをすると、引き受けてくれやすくなるという心理学と同じですよね。

 

ヒトラーはまず、あの高額な賠償金を破棄し、その2年後に軍をつくりました。もちろん周りの国は猛反対です。

 

でもみんな国内も大変なので揉めたくないんです。そこで、イギリスやフランスを中心に、ドイツに色々認めていきます。

 

機嫌を損ねないように、色々認めていく政策を宥和政策といいます。

 

周りの国に軍の所有を認めてもらったヒトラーは次のお願いをします。ラインラントというドイツ国内の地域に進駐するのです。

 

ラインラントは、ロカルノ条約で非武装化されていた地域です。この条約を結んで、ドイツは国連に入ったのでしたよね。

 

しかし、そのロカルノ条約を破棄して、ラインラントに軍をすすめたわけです。「ドイツ国内だからいいでしょ?」と。

 

周りの国は、「まあしょうがないか、、、」という感じで、3つ目のお願いも聞き入れてしまったわけです。

 

今度は、「ドイツ人がいるんだからいいでしょ?」と言って、オーストリアを併合します。さらに、ドイツ人が多く住んでいる、チェコスロバキアのズデーテン地方を統合しようとします。

 

そこでイギリスのジョゼフ・チェンバレンが「待て待て」とストップをかけ、話し合いをしようと提案します。こうして、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの4国が集まるミュンヘン会議が開かれました。

 

チェコスロバキアの話なのに、チェコスロバキアがいないというね。

 

結局、宥和政策をとり、ドイツのズデーテン地方統合を認めてしまいます。「ドイツ人の統合はこれで最後だから!最後のお願いだから!」ということでした。

 

「本当に最後ね?」と言って、認めてしまったわけです。

 

でも、これで最後ねと一枚ポテチを食べて、それでやめれたことってありますか?

 

ないですね。

 

味をしめたヒトラーは、一線を越えます。国外で違う民族である、チェコスロバキアを統合しようとしたのです。

 

もうイギリス、フランスは大バッシングです。「どれだけ好きにさせるんや!」と。

 

ドイツの勢いは止まらず、ポーランドにも手をだそうととします。

 

イギリス、フランスも「もうだめだ。我慢できない」となり、ポーランドがドイツの要求を拒否ったタイミングで、軍事交渉にでます。

 

ソ連も参加しましたが、そこでなんと独ソ不可侵条約を結んで周りを驚かせました。条約締結の背景としては、ソ連が西欧諸国のドイツへの対応を疑っていたことでした。

 

めっちゃ甘やかすやん。信用ならんな。ドイツと戦うにしても時間欲しいから、条約結んどくか」という訳でした。

 

ドイツは余計調子にのり、1939年9月1日、ポーランドに侵攻しました。イギリス、フランスはドイツに宣戦し、第二次世界大戦が始まるわけです。

 

第二次世界大戦

第二次世界大戦

 

ポーランドはあっさりドイツに負け、ソ連はフィンランドに宣戦して、バルト三国やルーマニアからベッサラビアも割譲させます。

 

数ヶ月間、西部戦線はなぜか平穏でしたが、1940年になってドイツが動き出します。デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーに次々の侵攻していくのです。

 

さらにはフランスに侵攻して、パリを占領してしまいます。ドイツが有利であることを見て取ったイタリアは、ドイツ側について参戦しました。

 

パリが占領されたフランスは、ドイツに降伏します。ペタンという人物がヴィシーで政府を作りますが、ドイツの操り人形でした。

 

ヒトラーの演説に歓喜する始末。今はフランスの消したい過去のようです。

 

ただ、ド=ゴールという人物は仲間を連れてロンドンへ逃げ、自由フランス政府を組織します。

 

一方、イギリスではチャーチルが首相となり、ドイツ軍がイギリスに上陸するのを阻止します。また、ドイツはバルカン半島に進出しますが、バルカン半島に子分が多いソ連は眉をひそめます。

 

ソ連はドイツとケンカになってもいいように、攻撃してきそうな日本と日ソ中立条約を結んで戦いに備えました。

 

独ソ戦

 

予想でどおり、ドイツは独ソ不可侵条約を無視して、ソ連を奇襲します。ソ連はなんとか押し返しましたが、「ドイツと戦うのキツい!」と思ってしまいました。

 

そこで、今まで不信感を抱いてきたイギリスと同盟し、アメリカとも協調関係を結んで、ドイツに備えることにします。

 

コミンテルンもこのタイミングで解散します。

コミンテルン、コミンフォルム、コメコン の違いとは?!

 

 

太平洋戦争

 

新しく土地をゲットして、日中戦争の消耗を回復させたい日本、資源や人員が不足してきて苦しくなってきたドイツ、イタリアが日独伊三国同盟を結びます。

日独伊三国同盟はなぜ結ばれた?わかりやすく解説!

一方、アメリカは中立の立場でしたが、武器貸与法でイギリスやソ連に、武器や軍需品をおくって、反ファシズムの姿勢を見せていました。

 

日本のファシズム的な行動が現れてくると、アメリカは石油供給を停止し、牽制しました。

 

そして、1941年12月8日、日本はおろかにも真珠湾を攻撃し、大国アメリカを敵に回します。そして、アメリカ・イギリスに宣戦し、太平洋戦争がスタートするのです。

 

この時点で、アメリカ・イギリスは自分らが勝った後、どんな世界にしていくのかを話し合っていたといいます。この2国を敵に回した時点で、もう既に日本は負けているのです。

 

開戦後、半年でマレー半島、香港、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ソロモン諸島、ビルマを占領して、「大東亜共栄圏」を唱えます。大日本帝国的な感じですかね。

 

傀儡政権として彼らをあやつり、日本に協力させるわけです。従わない者には厳しく処罰しました。

 

また、国内でも言論、報道の自由が厳しく制限され、全体主義がはかられます。このコロナ渦でもなんだか全体主義な感じがあるのは、気のせいでしょうか。

 

はい、話がそれました。

 

多くを味方につけたと思った日本でしたが、日本の弱点は工業の脆弱性でした。そのせいで、武器や物資がつくれず、長期戦には向きませんでした。

 

1942年のミッドウェー海戦でボロ負けすると、一気に劣勢になります。

 

 

結果

 

イタリア降伏

 

枢軸国と連合国の戦いという構造となり、この戦いは文字通り世界大戦となりました。

 

イタリア国内では、ムッソリーニに対する反対運動が強くなり、ムッソリーニは国王を解任されます。これまで、国を動かしてきたファシスト党は解散するのです。

 

1943年、連合軍がイタリアに上陸すると、イタリア新政府は無条件降伏しました。

 

ドイツ降伏

 

1941年8月、アメリカのローズヴェルトとイギリスのチャーチルが話し合い、大西洋憲章を出して、自分らが勝った後の世界の構想を発表しました。

 

もう余裕ですね。

 

さらに、ローズヴェルト、チャーチル、蒋介石の三人は、日本をどうするか話し合い、カイロ宣言を出しました。

 

また、ローズヴェルト、チャーチル、スターリンのテヘラン会談では、ドイツをどう倒すかが話し合われ、それに基づいて、ノルマンディー上陸作戦を実行しました。

 

1945年2月には、ローズヴェルト、チャーチル、スターリンがヤルタ会談で、ドイツの処理と日本の戦い方を決め、ヤルタ協定を結びました。

 

ドイツは連合軍からの攻撃、物資や人員の不足、街は荒廃しボロボロな状態でした。ヒトラーは自殺し、ベルリンは占領され、ついにドイツは無条件降伏をします。

 

日本降伏

 

残るは日本です。

 

日本は不利な状態にも関わらず、負けを認めようとしませんでした。

 

トルーマン、チャーチル、スターリンの三人はポツダムで会談し、ポツダム宣言を出しました。ポツダム宣言の内容としては、

 

今降伏すれば、痛い目には遭わないよ。降伏した後は、そのクソみたいな軍国体制を解体して、日本国民に自由と平和を与えるからな。

 

でした。

 

正常な政府であれば、受け入れるわけですが、日本政府は今も昔もイカレています。

 

日本政府はポツダム宣言を無視したのです。

 

アメリカは「言うこと聞かないならもうしょうがねえ」ということで、原子爆弾を2つ落とします。原子爆弾の被害の責任はまじで日本にあると私は思います。

 

 

こうして、懲りた日本は1945年8月14日にポツダム宣言を受け入れて降伏し、15日に終戦するのです。

会談の覚え方

語呂合わせ
大きな傘を買ってやる、ポツポツ

 

大西洋憲章(大きな)

カサブランカ(傘)

カイロ(かっ)

テヘラン(て)

ヤルタ(やる)

ポツダム(ポツポツ)

 

その後

国際連合

日本の降伏前に、既にサンフランシスコ会議が開かれ、国際連合が発足していました。

 

国際連盟とは違い、ニューヨークに本部、全加盟国が平等に参加できる総会、拒否権を持つ5国が安全保障理事会を開き、決定力を強めました。

戦後処理

ドイツの降伏後、アメリカ、イギリス、ソ連、フランスは分割してドイツを占領しました。傀儡政権だったフランスがしれっと参加しているのはコメディです。

 

また、ニュルンベルクに国際軍事裁判を設置し、戦争犯罪人を裁きました。

 

日本でも、極東国際軍事裁判所が置かれ、戦争犯罪人が裁かれました。日本では、軍隊の解散、女性の解放、農地改革、財閥解体がGHQによって行われます。

 

アメリカに占領されてるのに、当時の日本国民は「自由を得た」と感じ、同時に「外国によってそれが持たされるのはなんて恥ずかしいことなんだ」と思ったそうです。

 

さらには、日本国憲法が制定され、日本は民主的な国へと変貌をとげていきました。

 

イタリアは、王政がくずれ共和制となりました。また、大戦中の抵抗運動で、大きな役割を担った共産党に人気がでたようです。

 

まとめ

 

いかがでしたか?すごいボリュームでしたね。

 

一気に覚えるのは難しいですが、少しずつ理解を深めて、論述できるレベルまでマスターしていきましょう。

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それではまた!

 

 

 

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