どうも!ケイトです。
今回は戦争解説ということで、クリミア戦争を分かりやすくまとめていきます!
Contents
クリミア戦争とは?覚え方も!
クリミア戦争
クリミア戦争は1853年に起こった、ロシアとオスマン帝国の戦いです。南下したいロシアと、それを拒否したい英仏に支えられたトルコ、という構図です。
語呂合わせ
いや誤算、栗と老子がニコニコ
1853(いや誤算)
クリミア戦争(栗)
トルコ(と)
ロシア(老子が)
ニコライ(ニコニコ)
栗さんと老子さんは仲良くはなれないと思われていたのに、両者ニコニコ、という状況に、「誤算だわあ」って思ってる、っていう語呂合わせ。
原因
クリミア戦争はロシアvsオスマン帝国の戦いです。
ニコライ1世
当時のロシアの皇帝はニコライ1世です。同時期には1848革命が起きていました。
ロシアはハンガリーの民族運動を反革命的立場から制圧し、「ヨーロッパの憲兵」とも呼ばれていました。
そのように国際的に優位になったので、ニコライ1世は「それを利用してやろう」と考えます。
ロシアはずーーーっと凍らない港を欲しがっていました。そのためには南へ行って領土を広げなければいけません。
ロシアのこの政策を「南下政策」と言います。
イギリス・フランス
大国ロシアが南下してくることに感づいたイギリスとフランスは、ロシアが強くなって欲しくないがために、すごく警戒をします。
フランスは、「ロシアが来たら助けてあげるから」と言って、オスマン帝国にイェルサレム(パレスティナ)の聖地管理権を手に入れます。
これはロシアへの対抗に加えて、キリスト教会の歓心を買う事もかねています。
それに対して、ロシアのニコライ1世は、オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護を口実に同盟を申し込みます。
しかし、オスマン帝国は拒否。ロシアはギリシア正教徒の保護を口実に宣戦し、クリミア戦争がスタートします。
この戦争の原因はギリシア正教徒の保護ではなく、ロシアの南下政策ですね。ギリシア正教徒の保護はただの口実でございます。
結果
勝敗
イギリス・フランスはオスマン帝国側についたので、結局列強同士の戦いになりました。形はロシアvsオスマン帝国ですが。
セヴァストーポリ要塞をめぐる激しい攻防の末、勝利したのはオスマン帝国でした。
講和
この戦争の講和条約は、パリ条約です。ロシアは黒海の中立化と、オスマン帝国の領土の保全を認めさせられ、南下政策を折られました。
前にも南下政策を断念させられています。
影響
まずフランスは、ヨーロッパの有力国としての地位を取り戻し、ナポレオン3世の人気は高まりました。
次にイギリスはロシアの南下を阻止したことでアジア支配ルートを確保できました。だからインド支配もできたわけですね。インド大反乱も鎮圧してしまいます。
一方、ロシアは、南下政策が大きく挫折することになり、ウィーン体制時代の「ヨーロッパの憲兵」の地位は地に落ちてしまいました。
戦争の末期に皇帝になったアレクサンドル2世は国を強くするために近代化をしようと動き出します。1861年から農奴解放令などの「上からの改革」を進めていき、軍の近代化で西欧に打ち勝つことに専念しました。
語呂合わせ
いや誤算、栗と老子がニコニコ
1853(いや誤算)
クリミア戦争(栗)
トルコ(と)
ロシア(老子が)
ニコライ(ニコニコ)
まとめ
いかがでしたか?クリミア戦争の解説でした。
ロシアが絡むときは結構南下政策がでてきますのでしっかり押さえておきましょう。
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それでは。
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