どうも!ケイトです。
民主政のお話は読んでいただけましたか?論述でも結構問われるので、マスターしておいて下さいね!
今回はペルシア戦争について、戦いの順番の必殺覚え方、後半はその後につい解説していきます!
それでは行きましょう!
Contents
ペルシア戦争の語呂合わせ!
マラソンでるも皿ミスプラン
2 テルモピレーの戦い(でるも)
3 サラミスの海戦(皿ミス)
4 プラタイアの戦い(プラン)
歳を取ってもマラソンに出たいおじいちゃん。反対を押し切ってマラソンに出場しましたが、膝が悪いことを忘れていたため、膝の皿が外れちゃった、というストーリーでした。
ペルシア戦争
アテネ、スパルタのようなポリス社会が発展していた頃、東の方ではアケメネス朝ペルシアという国が一大帝国を築いていました。
エジプトのあたりからガンジス川の辺りまですべて領土でこれはこれは大きな国でありました。さらに強大な軍事力を誇っていたのです。ペルシア戦争のきっかけから話していきます。
原因とは?
まず、ペルシア帝国内で支配されていたギリシア人がいました。
それに不満を持っていたギリシア人は、支配からの離脱を訴えて反乱を起こします。反乱が起きたのがイオニア地方。アテネはそんなに遠くなかったので、同じギリシア人としてアテネは手を貸します。
そして、アテネが反乱を手助けしたことに怒ったペルシアは遠征軍を差し向けます。
マラトンの戦い
大国ペルシアと小さなポリスであるアテネ。
勝負はついているように思えますが、アテネは強みを持っています。
アテネは民主政によって一致団結しているのです。戦士は「ポリスのためなら俺は死ねる」と思っている勇敢な人々です。
そんな勇敢なアテネの重装歩兵軍も大国には苦戦します。
しかし、一致団結の力は強く、大国ペルシアを打ち破るのです。
ある人が勝利したことを長い距離走って報告しにいき、報告した後すぐに死んでしまったという話から、マラトンの戦いは「マラソン」の語源になっていますね。
サラミスの海戦
アテネの人々はマラソンの戦いで勝利した後も気を緩めませんでした。テミストクレスという優秀な人物はの指導により海軍を拡充するのです。
勝っているけど天狗にならず、備えたのですね。
アテネの思った通り、ペルシアとまた戦いになりました。今度は海です。この戦いをサラミスの海戦といいます。
結果はどうなったか。巧みな戦術で見事にペルシアを打ち負かしました。ペルシア軍を挑発しておびき寄せ、一挙に襲いかかったという話があります。
アテネの戦略はお見事ですね。
プラタイアの戦い
まだやんのかって思いますが、これが最後です。
それが、プラタイアの戦い。
アテネはライバルのスパルタと連合します。目的を見失わず、プライドを捨てる感じ、なんかかっこいいですね。スパルタ軍は超強いので良い味方です。
アテネ・スパルタ軍はペルシア軍と激突し、見事に勝利を治めました。これによりペルシア戦争の勝利は決定的となり、オリエントの専制支配からポリスの独立と自由を守ったのです。
また、参政権を持たなかった人々は、軍艦の漕ぎ手として戦争に参加し大活躍したことで発言力を増し、その後のペリクレスの民主政の完成へとつながっていきます。
ペルシア戦争の語呂合わせ!(復習)
さて、戦いについて分かったところでもう一回紹介しておきますね。
マラソンでるも皿ミスプラン
2 テルモピレーの戦い(でるも)
3 サラミスの海戦(皿ミス)
4 プラタイアの戦い(プラン)
戦争に勝ったけれど...
主導権争い
ペルシア戦争に勝利したギリシア世界でしたが、やはりライバルはライバル。アテネとスパルタの間で主導権争いが起きてしまいます。
アテネはペルシアの復讐にそなえて、エーゲ海沿岸を中心とした諸ポリスが軍事同盟(デロス同盟)を結びます。スパルタはアテネの行動を見てこう思うのです。
「他のポリスをとりこんで主導権とろうとしてんな?コンニャロー」。
そこでスパルタは同じように軍事同盟(ペロポネソス同盟)を結ぶのです。
ペロポネソス戦争
主導権争いは戦争に発展していきます。この戦いはペロポネソス戦争と呼ばれています。しかしアテネは疫病で名指導者であるペリクレスを失うと政治が混乱、どんどん落ちぶれてしまいます。
また、2陣営だったこの戦いはなんと途中から三つ巴の戦いに変わります。テーベという都市国家が参戦してくるのです。
さらにペルシアがギリシア人同士が争うようにそそのかしたために、戦争は長期化します。
戦争が長期化すれば、土地を失って市民の身分から転落する人が増え始めますよね。戦うには装備やら自腹で用意しなければならないからです。
兵士が減ってしまったとき、指導者はどうするかというと、お金で兵士を雇いました。雇われ兵のことを傭兵といいます。
しかし傭兵は、ポリスよりも自分の生活が優先です。「ポリスのためなら死んでもいい」という市民とは違います。ですから、兵隊の団結力は必然的に弱くなってしまいます。
その結果、ポリス社会は荒廃しはじめ、滅亡への道を辿っていくのです。
ペルシアもギリシアも
田舎もん、マケドニアがギリシアを...
ペロポネソス戦争で混乱するギリシア世界の北には、マケドニアという王国がありました。他の民族がポリスをつくっているというのに、マケドニアは未だ王国で、見下されておりました。
田舎者扱いです。
ところが、マケドニアの王、フィリッポス2世は軍事力の増強に努め、混乱のなか戦いに割って入ってきます。そして、驚いたことにアテネとテーベの連合軍を破ってしまうのです!
フィリッポス2世はスパルタを除いた全ポリスをコリントス同盟という形で統合。
田舎の王様が都会を支配下に収めてしまいます。
アレクサンドロスの東方遠征&ペルシア滅亡
ところがフィリッポス2世はその後暗殺されてしまいます。フィリッポス2世には可愛い息子がいました。それがアレクサンドロスです。
パパが亡くなったあと、彼は役目を引き継ぎます。
彼は小さい頃からパパの支配している領土だけじゃなく、パパを超えて、世界を支配するんだという強い野心を持っていました。
アレクサンドロスはギリシア世界にとって脅威だった、東方のアケメネス朝ペルシアを倒すため、マケドニアとギリシアの兵士を率いて出かけます。
これが東方遠征です。
彼は勇気ある賢い戦士でした。重装歩兵で攻めると思わせ、その隙に騎馬隊で攻め込んでいきました。また、甘いマスクに、カールした髪をもつイケメンで、なんでも知っていたそうです。
だって彼の家庭教師はあの有名な哲学者、アリストテレスですもんね。彼はイッソスの戦いでペルシア王ダレイオスを破り、エジプトを征服します。
そしてアルベラの戦いで勝利し、ついに大国ペルシアを滅ぼします。彼はついに広大な領土を手に入れたのです。そして彼は東西にまたがる大帝国を築いたのです。
しかし彼はそれだけでは飽きたりませんでした。全てを自分のものにしたいという野望から、インド西北部まで軍をすすめます。
アレクサンドロス、死す
ギリシアから遠くインドまで行軍してきた軍隊の疲労はピークに達っします。インダス川流域まで侵攻したところで、勢いは止まってしまいます。
彼はまだ冒険したりませんでしたが、部下たちはもう帰ろうよ、となってしまったのです。仕方なく故郷マケドニアに帰る途中、彼はバビロンの地で32歳の若さで死去してしまいます。死因はマラリアだと言われています。
どんな矢も当たらずどんな戦いでも死ななかった彼は、一匹の蚊によって命をおとすことになりました。
後継争い
カリスマ性のある人物が死ぬと、ほとんどの場合、後継争いが起こります。
アレクサンドロスは「最も強き者が我が後を継げ!」という遺言を残していたために後継者争いが始まります。
後継者はディアドコイと呼ばれ、彼の部下の将軍達でした。アレクサンドロスの帝国は結局、
アンティゴノス朝マケドニア
セレウコス朝シリア
プトレマイオス朝エジプト
の三ヶ国に分裂してしまいます。
東方遠征の歴史的影響
アレクサンドロスは東西またがる大帝国を築くという偉業を成し遂げましたね。では、歴史的にどんな影響を及ぼしたかということをお話しします。
一番大切なのはギリシア世界とオリエント世界を融合したことです。オリエントの文化を壊さなかったおかげで、お互いの文化を融合したユニークな文化を生み出すことになりました。
その文化をヘレニズム文化といいます。その芸術は日本にも伝わっています。また、コイネーというギリシア語も生まれ、学問にも大きな影響がありました。
さらに、新たな考え方も生まれます。コスモポリタニズムです。世界市民主義とも呼ばれ、世界を一つの国として、みんな平等だ!という考え方です。
ポリスという概念が廃れたために、このような概念が生まれたのですね。ギリシア世界とオリエント世界が出会ったこの時代をヘレニズム時代と言います。
まとめ
いかがでしたか?ペルシア戦争から、その後のことを一気に解説しました。すこしややこしいですが、ポイントを押さえて理解していって下さい。
それではまた会いましょう!
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