どうも!ケイトです。
中国史において、建国と滅亡についての知識は必ずおさえておくべきものですよねしかし、それが簡単に把握できないから困るんですよね。
ってことで今回は、明の時代の流れをさらっと復習しながら、滅亡の理由について解説していきます!
Contents
明の滅亡の理由
最初に、簡単に明の滅亡(1644)の理由を説明しておきます。
晩年の明は北虜南倭、豊臣秀吉が朝鮮に攻め込んで来て、頑張って追い返す、等戦争が続いて苦しんでいました。
その結果、軍事費がかさんで財政難になります。
財政再建を行うと今度は、税金がたくさん取られることについて地方出身の官僚が反発します。
東林派と呼ばれたグループは、政府を批判し始め、それからだんだん明の中で仲間割れが起こっていきます。
さらに飢饉が起こり、もうこれはカオス。反乱はどんどん広がっていきます。
そしてついに、大きな軍を持っていた李自成という人物が大反乱を起こし、ついには、明を滅ぼしてしまいます。
明の成立
では、成立から確認し、明の滅亡の理由を深く探っていきます。
そもそも明というのは、1368年、朱元璋(しゅげんしょう)がたてた漢民族の王朝です。漢民族というのは、分かりやすく言えば純中国人という意味。
明は、皇帝独裁政治、脆弱な国家体制、商業の発展が特徴的です。一つずつ見ていきましょう。
初代皇帝の朱元璋(後の洪武帝)は、死ぬほどびびりっちょ。だれも信用していませんでした。
それでも彼が皇帝独裁政治を進めたのは、「自分に全権力を集中させれば、反乱やクーデターも起きないだろう」と思ったから。自信あんのかビビリなのか分かりませんが。
皇帝独裁政治の例としては、以下の通りです。
・政策をやるかどうか決める中書省の廃止
・六部(日本で言う省庁みたいな)を皇帝に直属
・里甲制で治安維持
・租税台帳(賦役黄冊)をつくる
・土地台帳(魚鱗図冊)で土地を管理
・民衆の教育のために六諭という6箇条の教訓を出す
洪武帝の死後、皇帝位争いである靖難の役が起き、永楽帝が即位します。(字面が似ている靖康の変と共に靖難の役を復讐しておきましょう)
脆弱な国家体制
明の時代は外部から死ぬほどちょっかいを受けます。北は満州人、南は倭寇(海賊)に悩まされます。この状態を「北虜南倭」といいました。
土木の変、アルタン=ハンの侵入、後期倭寇の順でみていきましょう。
土木の変
中国の北にはモンゴルがありますが、明とモンゴルは朝貢関係にありました。しかし、モンゴルは、自由に交易したいのに、偉そうにそれを制限してくる明が嫌でした。
それを動機として、度々中国に侵入するようになります。15世紀の半ば、西モンゴルのオイラト族が強くなり、ある事件を起こしました。
オイラト族のリーダーである、エセン=ハンは明に侵入し、皇帝である正統帝を拘束してしまいます。この事件を、土木の変といいます。
北京を包囲され、皇帝は捕虜になり、、、という明によっては屈辱的な結果となりました。この事件は仕掛けた側が実質的に勝ったので、「乱」ではなく「変」ですね。
明は事件後、侵入を防ぐために長城を改修しました。これがかの有名な万里の長城です。
アルタン=ハンの侵入
アルタン=ハンは16世紀頃、万里の長城を攻略して、明に侵入し、北京を包囲しました。明もたまったもんありません。
長城の外で住みだす中国人もでてきてしまい、結局明はモンゴルと講和し、貿易の規制を緩めました。
豊臣秀吉
明に直接入られたわけではないですが、豊臣秀吉が朝鮮に侵攻したという話もしておきましょう。
豊臣秀吉は領土拡大のために、朝鮮に攻め込み、日本では、文禄・慶長の役、朝鮮では、壬辰・丁酉倭乱と呼びます。
朝鮮は、明の支配を受けており、明にとっては大事な子分的な存在でした。
明は、朝鮮を助けようと、李舜臣の率いた朝鮮の水軍を援護します。朝鮮も必死の抵抗を見せ、日本は豊臣秀吉が病死したこともあり、撤退していきました。
後期倭寇
後期倭寇というのは、16世紀のアジア系海賊のこと。密貿易や略奪を繰り返し、勘合貿易を妨害しました。
そのせいで、朝貢体制が維持できなくなっていきます。
商業の発展
明では工業が盛んになり、同時に商業も盛んになります。綿織物や生糸を良く生産したので、綿花か養蚕など、原料をつくる農家も儲けました。
長江の中流域にある、湖広という地域では、穀物の生産で有名になりました。「湖広熟すれば天下たる」という言葉は有名ですね。
景徳鎮という地域では陶磁器が生産されました。生糸や陶磁器は、国外に輸出される中国の目玉商品となります。
明の政府と結びついた特権商人がでてきますし、同業者の憩いの場、、的な会館、公所が作られます。
逆に私人が貿易することを禁じ、朱印船貿易に見られるように許可された船しか貿易できませんでした。
また、ヨーロッパの銀や日本の銀が明になだれ込むようになり、その銀を使って納税制度も変わっていきます。一条鞭法(いちじょうべんぽう)ってやつですね。
この商工業の発展のおかげで、これまでの朝貢体制から、軍事力を備えた貿易競争になっていきます。
ついでに明の文化も押さえておきましょう。
明の滅亡(1644)
さて、周りの国から色々ちょっかいを受けてきた明でしたが、商業や文化の発展が著しい時代であったのも事実でした。明はどうして滅亡したのでしょうか?
女真
中国の東北には、農牧や狩猟をして暮らす女真が住んでいました。女真は後に「満州」と呼ばれるようになります。聞き馴染みありますね。
明から支配を受けていましたが、薬用人参や毛皮の交易を盛んに行っていました。
この交易で得た利益は莫大なものだったので、「それ俺の!」「は?私のだし!」「なに言ってるんだ取り過ぎだろうが」というケンカになり、部族間で内乱が起きます。
その内乱の中で、頭角を現し、自立したのが、ヌルハチでした。
(悪意はないですが、始めて「ヌルハチ」って聞いた時は、なにか冗談かと思った。めっちゃヌメヌメした名前やん、と。英語は「Nurhaci」なので、発音ちょっと違うかもですね。「ヌルハチ」ではなさそう、ナーハティかな)
彼は、明によって祖父と父を殺され、女真から独立して満州語で「金」、アイシンという国をつくります。
ヌルハチは、八旗(はっき)というという血縁を基礎とした軍事、行政組織を編成したり、満州文字をつくったりなど、精力的に国作りをしました。
明に対しては、二度も総攻撃を仕掛けましたが、大砲の集中砲火に合い、敗北。ヌルハチもここで命を落としたといわれています。
李自成の乱
2代目のホンタイジ(ヌルハチの息子)は、皇帝と称し、国号を「清」に定めました。
明では、北虜南倭、豊臣秀吉が朝鮮に攻め込んで来て、頑張って追い返す、等戦争が続いており、軍事費がかさんで財政難になっていました。
万暦帝の時代になり、張居正が財政再建を行いましたが、税金がたくさん取られることについて地方出身の官僚が反発します。
東林書院の関係者が中心に、政府批判を行うようになり、彼らは東林派と呼ばれるようになります。
財政難、仲間割れは国が倒れる一種のサインですね。さらに飢饉も起こって、反乱が起こりまくり、カオスな状況に。
そこで、大きな反乱軍を持っていたのが、李自成という人物でした。彼の反乱は李自成の乱と言います。
この反乱は農民反乱の一つという位置づけで、反乱軍の構成員の多くは重税に苦しみ、大飢饉で限界を迎えた民衆や農民でした。
そうして、李自成は、反乱を通して、1641年に洛陽、開封、西安と攻め落とし、北京へ。1644年明の皇帝であった崇禎帝が自害。
明を滅亡し、次の清の時代に続いていくのです。
まとめ
まとめると、人間って自分のことしか考えてない。
以上です。
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