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【説明できる?】秦と漢の違いとは?

みなさんこんにちは。ケイトです。

 

今回は秦と漢について解説していきます。2つの王朝の違いを中心に見ていきましょう。

秦と漢の違い

秦と漢

秦→15年で滅びる。法治国家。儒教は弾圧。

 

漢→400年続いた王朝。儒家の思想を政策のベースに、儒教は国教に。

 

 

秦のポイント

始皇帝

貨幣・度量衡・文字の統一

焚書・坑儒

陳勝・呉広の乱

中学校で習った部分も多いかと思いますが、しっかり解説していきます。

 

戦国時代の秦は、七雄の中でもっとも西に位置していましたね。しかしこの国の強さは異常でした。

 

早くに改革を実施して国力を蓄え、他の国を全てぶっ倒し、中国全土を統一してしまうのです都は咸陽という場所におきました

 

始皇帝は本名を「政」といいます。まさにキングダム の世界ですね。

 

秦の統一の前に、彼は、13歳で秦王となります。その時点で秦は渭水という場所を中心に戦国諸侯の中では最有力の国家となっていました。

 

田んぼに水を引くシステムの開設などで国力を充実させ、実権を握った始皇帝は、積極的に東方の6国の攻略に乗り出しました。

 

韓、趙、魏、楚、燕を次々に制圧、最後にを降伏させて中国の統一に成功しました。

 

中国統一

 

彼は始皇帝として即位しました。

 

中国の統一を成し遂げた始皇帝は郡県制の中央集権体制を実施し、さらに貨幣・度量衡・文字の統一策を実施していきました。

封建制、郡国制、郡県制の違いって?

 

貨幣や数字の基準、文字が統一されることで、商品の取引やコミュニケーションがしやすくなり、その結果、統治もしやすくなるのですね。

 

また、法家の李斯(りし)のアドバイスにより、実用書を除く儒家などの書物を禁書として廃棄する焚書を行いました。

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さらに翌年は始皇帝の政治に批判的な学者を生き埋めにするという焚書・坑儒を行いました。むごいですね。

 

秦は法治国家でした。儒教の性善説がベースだった周とは違い、秦では性悪説がベースです。秦の政策とは儒教は真反対でしたので、弾圧していったのです。

 

 

このような政策を見ていると、自分に反対する人には容赦のない残忍な皇帝のイメージがついてしまいそうですが、

 

幼少期に人質とされ命の危機の経験も経て、幼くして皇帝の座に就いたということを考えると、一概にそう言えない部分もあるようです。

 

 

滅亡

不老不死を願った始皇帝でしたが、50歳で亡くなります。

 

色々あって彼の末っ子が皇帝になります。しかし、彼は今までの法治主義とは違った政策を行っていくのです。

 

逆に今までのアドバイスだった法家を避け、アドバイスをされても無視しました。

 

 

あるとき、民衆の政府への不満が爆発して、陳勝・呉広の乱が起きます。

 

皇帝は法家の李斯が復讐で反乱軍にを指導しているのだと疑い、その一族とともに処刑してしまいました。

 

しかし、李斯はめちゃくちゃ有能で忠実な官僚だったので、彼を亡くした秦は急速に求心力を失っていきました。

 

また、陳勝・呉広の乱の影響で、連鎖するように各地で農民反乱が続き、秦は一気にに崩壊に向かいました。

 

 

農民反乱では、劉邦や項羽などの勢力が大活躍し、秦の中心地に進軍してきます。

 

そして、見事に皇帝を降伏させ、秦を滅亡させました。

 

漢のポイント

劉邦

郡国制

呉楚七国の乱

武帝

張騫

郷挙里選

均輸法 平準法

新 王莽

後漢 光武帝

党錮の禁

太平道 黄巾の乱

前漢

前漢は、農民出身の劉邦が、秦に代わって樹立した中国の統一王朝で、都は長安という場所です。

 

基本的な制度は秦の制度を継承しましたが、秦失敗から学んで、前漢独自の制度も整備されていきました。

 

その代表格が郡国制です。秦の郡県制を反省して、郡県制と封建制の良い所取りをした制度です。

封建制、郡国制、郡県制の違いって?

しかしその郡国制ですが、短期間のうちに事実上消滅してしまいます。

呉楚七国の乱

そのきっかけが呉楚七国の乱です。

 

呉楚七国の乱は、有力な諸侯王国のうちの、呉・楚・趙など、7国が、中央政権に対して連合し、挙兵した内乱のことです。

 

諸侯というのは、有力な貴族みたいな人達のことです。王の子孫だった人もいるみたい。

 

 

彼らが中央政府に反発したのは、中央政府が諸侯王の土地を没収して皇帝の直轄地を拡大しようとしたからでした。

 

しかし反乱はわずか三ヶ月で失敗し、鎮圧されました。

 

それを境に漢の諸侯抑圧策は強化されていきます。

 

次の武帝の時代には郡県制がさらに拡大され、実質的な中央集権体制となっていきます。

 

武帝

第7代皇帝の武帝は、国内外で多方面にわたって政策を施していきます。

 

対外関係では、匈奴倒すための方法を探して、張騫(ちょうけん)という人物を近所の大月氏国に派遣します。

 

そのかいあってか、漢は西域の匈奴勢力を一掃することに成功しました。

 

また、李広利と言う人物を大宛(フェルガナ)に派遣して討ち、西域にその勢力を伸ばしていきました。

 

他にも、ベトナムの南越を滅ぼして日南郡などを置き、朝鮮にも侵出して楽浪郡を置いて直轄領としました。

 

このように武帝時代には、中国の外に目を向け、文字通り漢帝国を築いたのです。

 

国内政策では、郡県制を拡大させ、ほぼ全土への統一的支配を実現させました。

 

また、官吏登用制度では郡県制を基盤として郷挙里選(地方豪族の子弟が推薦されて中央の官吏となる)の制度を設け、人材登用を図りました。

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均輸法 平準法

また統一国家の理念として董仲舒(とうちゅうじょ)の意見をいれて、秦とは違って儒家のみを尊重する路線(儒学の国教)を打ち出し、帝国の路線を明確にしました。

 

しかし、さかんな外征と土木事業は帝国の財政を圧迫したため、財政再建を図る必要が生じました。

 

そのため重税策を取り、また塩・鉄・酒の専売制五銖銭の発行などによって財政の安定を図りました。

 

また地方のあまった物資を、政府が足りない場所に転売して物価の均等化を図るとともに政府の収入とした「均輸法」

 

ある商品の価格が下がった時に政府が買い取り、その価格が上がった時に売却して利益を国家財源に充てた「平準法」も大きな改革として挙げることができます。

 

武帝の死後、幼い皇帝などが相次ぎ、やがて宦官や外戚などの親族が実権を握るようになっていきました。

 

宦官は去勢された家来、外戚は皇后の親族のことです。

 

 

そのなかで前漢が衰退していき、外戚の王莽(おうもう)が帝位を奪い、新しい王朝「」を建国しました。

 

周王朝を模範とした復古主義的な政治を行っていきました。

 

しかしその政治は時代に合っておらず、混乱が起きてしまいました。

 

これが赤眉の乱です。まあそりゃ私達も平安時代や江戸時代の政策をやられたら怒りますよね。

 

全国で反乱が続発し、王莽は殺害されました。ここに新王朝は短すぎる幕を閉じました。

 

後漢

 

混乱の中から台頭した漢の劉秀は、光武帝として帝位につき、漢王朝を復興させました。これ以降を後漢(ごかん)といいます。

 

後漢は、都は長安ではなく洛陽(らくよう)におきました。

 

光武帝は王莽の時に定められた制度のすべてを廃止し、前漢の制度を復活させます。

 

奴婢の解放、耕地・戸籍の調査、田租の軽減、郡兵の廃止などの民生安定策を実施しました。

 

匈奴(東匈奴)は光武帝の時代にも脅威となっていましたが、そのうち南北に分裂し、南匈奴は後漢に降伏しました。

 

 

しかし2世紀以降、後漢も幼い皇帝が相次ぎ、宦官・外戚勢力と、郷挙里選によって中央に進出し儒学を学んだ豪族出身の官僚が対立していきました。

滅亡

 

そして宦官勢力が、官僚勢力を大量に弾圧・追放した「党錮の禁」という事件が起きます。

 

 

これによって、国民の間で社会不安が増大します。

 

人間、不安になると何かにすがりたくなるもの、、、ということで宗教結社が台頭していきました。

 

その代表格が張角が創始した「太平道」です。

 

この組織はやがて大勢力に発展していき、ついには宗教反乱「黄巾の乱」が発生します。

 

そしてこのまま「魏」「呉」「蜀」の三国時代へと入っていきます。

【世界史】3分で分かる!三国時代~北魏までの流れ!

220年に魏の曹丕が帝位を奪ったことにより、後漢は滅亡しました。

 

 

 

まとめ

いかがでしたか?濃い内容でしたが、しっかり理解して、テストに役立ててくださいね!

 

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それではまた会いましょう!

 

 

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