どうも!ケイトです。
ロシアの歴史って教科書の情報量がそんなに多くないのに、試験や模試ででる確率って高いように感じませんか?
ということで今回は、プガチョフの農民反乱を中心に、ピョートル1世からエカチェリーナ2世の間の出来事を解説していきます。ではいきましょ~
Contents
プガチョフの反乱とは?
プガチョフの反乱
プガチョフの農民反乱とは、1773年、エカチェリーナ2世が統治していたロシアで起こった、農民の反乱です。
なぜ起こったかを簡単に解説しておきましょう。あとで詳しく解説しますよ。
啓蒙専制君主だったエカチェリーナ2世は近代化政策を実施していたのですが、ここで近代化しているにもかかわらず、絶対王政という体勢は捨てないという、どっちつかずな謎の状態が生まれます。
また、近代化に伴って、軍を強くしていくため、国民に重税を課していました。
そこである男が、この絶対王政の状態や、重税、農奴制の強化に異議を唱えます。それがコサックだったプガチョフという人物です。
コサックというのは、ロシアの騎馬遊牧民で辺境警備隊もやっていた人達のことです。プガチョフの呼びかけで、各地のコサックが蜂起し他の民族や労働者も共鳴し、結果大反乱になりました。
これが、プガチョフの農民反乱です。
語呂合わせ
では、語呂合わせです。
プーさん、いーなあNASA
プガチョフの反乱(プーさん)
1173(いーなあNASA)
NASAに行ったプーさんをうらやむピグレット
ピョートル1世
ここからは、プガチョフの農民反乱がどんな文脈で起きたのかを知るために、ピョートル1世からエカチェリーナ2世までの流れを解説していきましょう。
ピョートル1世は実に働き者な皇帝です。(1682~1725)彼は、東方進出、南下政策、バルト海進出を成し遂げ、見事にロシアのロマノフ朝の支配力を強めました。
それゆえピョートル大帝も呼ばれます。
また、彼は自分から留学に行き、西欧の発展した技術や軍隊を見て「すげえ!」と感動し、それをロシアに取り入れたりしました。最終的には、ロシアの専制君主政治であるツァーリズムの体制を整えたようです。
すなわち、留学によって得た知識史より、西欧の文化・制度を導入。今まで対立しがちだった貴族層を巧みに抑え、上からの近代化を進めていって官僚制・軍事組織を整備し、ツァーリ(皇帝)が支配する世界をつくっていったというわけです。
(ツァーリという称号はロシア皇帝の公式名称ですね。カエサルがロシア語に転化したものです。)
そのロシアの体制が整っていく中途では、ロシアの大国化政策も積極的に行われました。覚えておいて欲しいのは、東方進出、南下政策、バルト海進出の3つです。
東方進出
ロシアはシベリアへの進出を目論み、東側へ進出していました。
この東方進出で押さえておいて欲しいのは、1689年にネルチンスク条約を清朝と結んだことです。これはロシアと清の国境を決めた条約です。当時の清の皇帝は、康煕帝ですね。
国境はアルグン川とスタノヴォイ山脈。難しめの試験では問われることがあるので、余力があればぜひ覚えておきましょう。
この条約は、ヨーロッパの国際法に準じた対等なものでした。その後、清とロシアは通商を開き、貿易をしていました。
南下政策
ロシアは凍らない港である、不凍港を手に入れたいという思いもあり、南に進出するということもしていました。
南下政策では、オスマン帝国を圧迫して黒海の北部アゾフ海を占領して進出します。南下政策をしたのはピョートル1世が初めてです。その後の皇帝はこの政策を引き継いでいくというわけですね。
オスマン帝国とロシアのいくつかの闘いはここで書くと少し多くなるので、関連記事を貼っておきます。
バルト海進出
バルト海とは、スウェーデンとロシアの間にある海のことです。ロシアは内陸を中心とした国だったので、海に出ていろんなところを支配したいという野心がありました。
そこでまずは西欧への足がかりとして、バルト海への出口を欲していたのです。しかし、バルト海はスウェーデンのものでした。
欲しいものが人の物だったら、、、、?奪っちゃえということで、スウェーデンに戦争をふっかけます。この戦争を北方戦争(1700~1721)といいます。スウェーデンの王のカール12世は当時18歳。(若っ)
ロシアはポーランドとデンマークも仲間にして、スウェーデンに攻め込みました。最初はスウェーデン優位だったのですが、ロシアがじわじわ盛り返し、最終的にスウェーデンを破りました。
こうして、1721年にニスタットの和訳という条約を結び、バルト海の制海権を得ました。これでバルト海もゲットです。その後は、新都として、ペテルブルクを建設して、西欧に出るための足がかりにしていきました。
エカチェリーナ2世
ロシアの主要な皇帝として必ず登場するのが、女帝、エカチェリーナ2世(1762~1796)です。彼女はピョートル1世の次の皇帝ではありませんが、彼の政策を引き継ぎ、進出を進めたことで有名です。
また、近代化をすすめようとした啓蒙専制君主としても有名で、これがのちにプガチョフの農民反乱を招きます。
エカチェリーナ2世で覚えておいて欲しいのは、領土の拡大政策(東方政策、南下政策)と、啓蒙専制君主として行ったことの2つです。
東方進出
東方進出では、オホーツク海(北海道の北東の海)まで進出しました。日本史にも繋がりますが、日本にラクスマンを北海道の根室に送って、日本との通商を求め、江戸幕府に開国を迫ったことでも有名です。
南下政策
南方では、ロシア=トルコ戦争でオスマン帝国と戦い、クリミア半島を奪い取ります。
南下ではないですが、ポーランド分割にも関わり、領土の拡張を図っていきます。ポーランドをピザのように分け分けしたやつですね。↓
啓蒙専制君主として
エカチェリーナ2世は啓蒙専制君主でした。啓蒙専制君主とは、絶対王政の下で、「私はただの国民の一人やけど、他のみんなより賢いから支配するで!」みたいな君主です。
啓蒙思想、それ自体は、自然法や社会契約説に基づいた人権や平等を中心とした思想です。しかし、啓蒙専制君主は、それを統治に利用し、支配の理念として採用していきます。
(そもそも啓蒙とは、知らない人を知っている状態にしていくみたいな意味で、若干人を見下した言葉でもあります。)
それゆえ「君主も国民の一人ではあるけれど、高い見識があるので、それによって国の行く末を一人で決めることができ、国の機関は君主の力を補うだけのものだ!」と主張したんですね。
さらには、国民の権利が認められるのは、あくまでも君主が思いやりをもって与えたありがた~~~~い権利であって、自由や平等が憲法に基づいて保障されているわけではなかったんですね。
ちなみに、他の啓蒙専制君主としてはプロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世です。
じゃあ、なぜ啓蒙思想を無理矢理、統治理論にしようと思ったのかというは疑問ですよね。
これは、イギリス、フランスを先進国としてライバル心を燃やしていたからなんです。
彼らに対抗するには、国家の発展が不可欠。そのためには産業や貿易の盛り上げ、軍事を強化しなければいけません。そして、君主が勉強して政策を図っていかなければいけない。
ということで、啓蒙思想を学び、「私は賢い、だから私が支配するべきや」という論理を使って、改革をしていったわけです。
君主が改革をして近代化をしていくという現象は「上からの改革」とも言われます。
このようにして、フランスの啓蒙思想家であるディドロという人物を招き、啓蒙専制君主として改革を進めていきました。
プガチョフの農民反乱
啓蒙専制君主だったエカチェリーナ2世は近代化政策を実施する反面、重税や農奴制の強化、絶対王政の維持のような近代化とは言いがたい様なことも行っていきました。
そこで、コサックだったプガチョフという人物が、絶対王政や、重税、農奴制の強化に異議を唱えます。彼は、「自分はピョートル3世」だと自称し、ロシア人ではないエカチェリーナを帝位剥奪者として非難したのです。
彼はコサックのリーダー的存在だったので、彼の呼びかけで、各地のコサックが蜂起し、さらにはロシア内の他の民族や労働者も共鳴し、結果大反乱になりました。
政府軍とぶつかりますが、1774年にプガチョフは逮捕され、反逆罪で処刑されます。
反乱を鎮圧したエカチェリーナ2世ですが、農民の反乱が怖くなってしまい、農奴制を強化し、農民を押さえつけるようになり、共和制を求めるような改革を潰しまくりました。
農民はもはや奴隷のような状態になっていて、それはそれはひどい有様だったようです。
語呂合わせ
プーさん、いーなあNASA
プガチョフの反乱(プーさん)
1173(いーなあNASA)
まとめ
いかがでしたか?
プガチョフの農民反乱を中心にピョートル1世~エカチェリーナ2世の間出来事についてまとめました。しっかり覚えて得点につなげていきましょう!
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それでは!
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