みなさんこんにちは。ケイトです。
今回は三国時代から、五胡十六国、北魏までの流れについて解説していきます!
Contents
三国時代
三国志という物語で有名な時代です。三国志自体はフィクションが多く含まれるのですが、登場人物はほとんど史実通りです。
中国では後漢の終わり頃に黄巾の乱が発生しました。これは、太平道という宗教結社の指導者張角が起こした反乱です。
これを皮切りに各地で軍事集団が形成され、国内は混乱しました。
そのような中で、220年に曹操の子である曹丕が後漢の最後の皇帝から皇帝位を譲り受けて華北(中国北部)に魏を建てました。
それに続き、長江下流域には孫権が呉を、四川には劉備が蜀を建国したので、魏・呉・蜀の3国が中国を三分する三国時代となりました。
語呂合わせ偽装後、孫に食準備
魏(ぎ)→曹丕(そう)
呉(後)→孫権(孫)
蜀(食)→劉備(準備)
覚えておきましょう!
三国時代の魏では九品中正という制度が始められました。
これは、地方に設置された中正官という役人が、青年に一品から九品までの9段階の等級をつけて評価し、9段階の等級に分かれていた政府の官位に就任する制度です。
青年は推薦時よりも低い等級の官位から始めて徐々に出世をするのですが、最初に推薦されたときの等級を超えることはできませんでした。
これはいわゆる人材登用制度であり先進的な試みでしたが、結果的に有力な豪族の子弟のみが高い等級に推薦されて高級官僚を独占することになり、
結果、名門の家柄の固定が強くなってしまいました。これはのちに貴族の強権化を招きます。
三国のうち最も有力だったのは魏で、最初に蜀を滅ぼしましたが、魏の将軍、司馬炎が国を奪って西晋を建てたために魏も消滅しました。
その後西晋は呉を破り、天下統一を果たし、三国時代は終わりました。
三国時代まとめ魏→曹丕
呉→孫権
蜀→劉備
魏が蜀を滅ぼす
西晋が魏を滅ぼす
西晋が呉を滅ぼす
五胡十六国時代
西晋が中国を統一すると、間も無く、帝位をめぐる一族の争いである八王の乱が起こりました。西晋の支配は揺らぎ、この反乱の中で北方の遊牧民族が勢力を拡大しました。
匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の5民族で、まとめて五胡と呼ばれます。
今日、競艇で決戦!
匈奴(今日)
羌(きょう)
氐(てい)
羯(けっ)
鮮卑(せん)
で覚えましょう
匈奴は西晋の首都である洛陽を落とし、西晋は滅ぼします。そして、皇帝一族の司馬睿(しばえい)は江南の建康(けんこう)で即位し東晋を建てました。
西晋が滅んだ華北ではその後、遊牧諸民族によって建てられた多くの政権ができたり滅んだりしました。
この時代を五胡十六国時代と呼びます。
五胡十六国時代は、鮮卑(せんぴ)の拓跋氏(たくばつし)が建てた北魏を太武帝(たいぶてい)が華北を統一したことで終わりを告げます。
北魏
五胡十六国時代を終わらせ華北を統一した北魏は均田制を採用しました。加えて、村落制度である三長制も始めました。
都を平城から洛陽へ移し、積極的な漢化政策をとりました。自分らの慣習や個性を抑えて、中国人らしく生きようと。
しかし、これらの政策に反発する軍人の反乱により、北魏は東西へと分裂し南北朝の混乱の時代が幕を開けます。
北魏の時代には仏教と道教がともに発展を遂げていました。
太武帝は道教を保護し、仏教に対しては厳しい弾圧を行いましたが、彼の後に続く皇帝は仏教を保護しました。
このことにより、北魏の最初の都である平城の近くに雲崗、洛陽の郊外に竜門という代表的な石窟寺院が造営されました。
この雲崗(うんこう)、洛陽(らくよう)、竜門(りゅうもん)は割とよく出るので地図と共におさえておきましょう。
まとめ
いかがでしたか?三国時代、五胡十六国、北魏について解説しました。自分の中でまた整理して、少しずつ定着させていって下さい!
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それではまた会いましょう!
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