【WWⅠ】3B政策と3C政策 をわかりやすく!覚え方も!

 

どうも!ケイトです。

 

第一次世界大戦ってすんごいややこしいイメージありませんか?実際、ややこしいです。はい(笑)でも、1つずつ紐解いていけば意外と分かることもあります。

 

今回は、第一次世界大戦の原因になっていく3B政策、3C政策について解説していきます。

 

Contents

3B政策

3B政策は、ドイツ帝国が行ったアジア支配計画です。

ビスマルク外交

 

前にヴィルヘルム二世のパン=ゲルマン主義のお話をしましたね。「ヨーロッパ中のゲルマン民族~みんな集まれ~☆」っていう思想でした。

パンゲルマン主義とパンスラヴ主義は何が違うの?!

 

しかし、彼がやっていたのは、そのような思想に基づくドイツ人国家づくりだけではありませんでした。なななんと世界帝国をもくろんでいたのでした。

 

ヴィルヘルム以前にはビスマルクという人物が外交をしていました。彼は、かなり戦略的な外交をしていて、フランスを孤立させるためにイギリスやロシアとうまく渡り合っていたんですよね。色々な領土の獲得を巡る争いでも、調整役をしていたことは有名です。

 

このような外交をビスマルク外交と言います。

 

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対して、ヴィルヘルム2世はかなーりの野心家で、「イギリス、フランスを敵に回すかも?知らんがな。世界征服するで」と皇帝になる際に息巻いていました。

 

「ゲルマン民族を集めた国家をつくるだけでなく、ゲルマンの血を世界に広めたい!」とやる気だったんですね。(パン=ゲルマン主義)

 

彼は、皇帝即位時はかなりのおじーちゃんだったビスマルクを退任させて、野望を叶えるための外交に乗り出すわけです。

ヴィルヘルム2世の3B政策

まず、やったこととしては、イスラームの聖地、パレスチナを訪れ、途中のオスマン帝国の首都インスタンブールで皇帝と会うことでした。

 

そして、「バグダード鉄道をとおしたいんだ。敷設権をくれ!」と要求します。

 

オスマン皇帝はそれを認め、ドイツはイスタンブール(当時はビザンティウム)からバグダードにかけての敷設権をゲットします。

(オスマン皇帝がなんぜすんなり容認したのか分からないので知っている人いたら教えて下さいな)

 

で、この2つのドイツのベルリンをつないでみましょう。

 

ベルリンービザンティウムーバグダード。頭文字が全部Bで、3Bですね。

 

このようにヴィルヘルム2世は西アジアの進出をしていったわけですが、イギリスの3C政策とひどくぶつかり、戦争に繋がっていってしまいます。

 

3Bの覚え方

 

ベル、ピザをパクッ

ベルリン(ベル)

ビザンティウム(ピザ)

バグダード(パクッ)

 

 

3C政策

3C政策は、イギリスが3B政策に対抗して行ったアフリカとインド支配計画のひとつです。

なぜイギリスは3C政策がしたかったの?

当時のイギリスは、世界一の工業王国から陥落しないために必死でした。

 

なぜなら、アメリカやドイツがものすんごい勢いで産業を発展させていたからです。実際、世界一の工業王国の座はアメリカに奪われてしまいます。

 

そこでイギリスは、自国で作ったものを植民地に売りつけることで、イギリス内でたくさん物をつくっても余らせないようにしようとしたわけです。

 

イギリスの植民地探し(帝国主義)はこのようにして始まりました。3C政策はその植民地維持のためであり、ライバルであるドイツへの対抗でした。

 

3C

エジプトのカイロ、インドのカルカッタ、南アフリカのケープタウンの3つを結んで3Cといいます。

 

まずエジプト。エジプトはオスマン帝国から事実上独立して、勢力を増していましたが、徐々に財政が悪化していきました。

 

そこで、イギリスとフランスが財政援助の名目でお金を貸します。

 

エジプトはこうしてイギリスとフランスからお金を借りますが、やがて返せなくなり、借金はどんどん増えてしまいます。

 

そのような債務不履行を狙ったイギリスにスエズ運河の経営権をとられてしまい、エジプトはイギリスのほぼ支配下みたいな状態になってしまいます。

 

そこで、ウラービーという人物がイギリスの言われるがまま状態に耐えられず、革命(ウラービー運動)を起こしますが、あえなく鎮圧されてしまいました。

 

エジプトはイギリスの保護国となります。

 

次にケープタウン。

アフリカ南部の地域ですね。ブール戦争で、トランスヴァール、オレンジ自由国もゲットし、支配領域を広げました。

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エジプトのカイロとケープタウンを結ぶと、アフリカ縦断することになりますが、似たようなことをやっていた国とぶつかります。(たて)

 

それがフランスです。フランスは、チュニジア、ジブチ、マダガスカルをつないで、アフリカ横断を政策をしていました。(よこ)

 

案の定、たてとよこがぶつかります。

ファショダという場所で、イギリスがフランス軍を包囲し「撤退する?戦争する?どっちにする♡?」と問い詰める、ファショダ事件が起こるんです。

 

が、ここでフランスが譲歩。撤退したおかげで大事件にはなりませんでした。フランスが譲歩した理由は様々あるようですが、仲間のロシアが日本や朝鮮に手を焼いていて忙しくイギリスと対立したらまずかったから、とか、ドレフュス事件(スパイが告発された事件)で国内が混乱していたから、とかがあります。

 

おまけにイギリスとフランスは英仏協商を結び、協力関係になりました。

 

また、イギリスはインド支配もしていたため、3C政策にはインドのカルカッタも入っています。

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イギリスの3Cは、ロシアやドイツとも衝突します。衝突しまくりですね。

カイロとカルカッタの線は、南下したいロシアと、3B政策のドイツとぶつかったんです。あらら。

 

このような衝突の積み重なりが、第一次世界大戦へと導いていくのでした。

3Cの覚え方

 

ケープタウンのカイロは軽かった

ケープタウン(ケープタウン)

カイロ(カイロ)

カルカッタ(軽かった)

 

 

まとめ

 

いかがでしたか?3B政策、3C政策のお話でした。しっかり覚えて得点につなげて下さいね。

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それではまた。

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