【今更聞けない】ローマ帝国が東西分裂した理由とは?年号語呂合わせも紹介!

みなさんこんにちは!ケイトです。

 

前回は軍人皇帝までのお話をしましたね。今回は、ついにローマの分裂についてです。詳しく見ていきましょう。

 

 

Contents

東西分裂

 

ローマ帝国の東西分裂とは?

 

そもそも、ローマ帝国の東西分裂の理由はというと、

 

・重税による反発

 

・ゲルマン人の大移動

でした。年号は396年です。

 

この東西分裂によって、西ローマ帝国、東ローマ帝国に分れていきます。

 

語呂合わせ

 

ローマ帝国が分裂したのは、395年ですね。

 

産休後、分裂

395(産休後)

分裂

 

ディオクレティアヌス帝とは?

帝国を東西に分け、それぞれ正帝と副帝の2人が統治する、四帝分治制(テトラルキア)をしいて、ローマを再び安定させることに尽力した人物がいます。

 

それがディオクレティアヌス帝です。

 

徴税のしくみを新しくしたり、軍の兵員を増やしたりなどの改革を行いました。しかし彼の皇帝としての評判は高くありません。なぜなら、キリスト教への大迫害を行ったためです。

【世界史】ニケーア公会議の覚え方!ローマ帝国がキリスト教を公認したのはなぜ?!

 

彼は権力の保持やリーダーシップの発揮のために、皇帝を神として礼拝させ、専制君主としてローマを支配しました。

 

これはオリエント式の支配体制を真似たものですが、もちろん礼拝を強要すれば、反発しますよね。

 

逮捕や投獄、聖書は焼却、教会は破壊されて財産は没収。反抗が目立つ者は公開処刑でした。彼の政治体制を専制君主政(ドミナトゥス)といいます。彼は病に倒れ、迫害の2年後に引退します。

 

コンスタンティヌス帝とは?

 

ディオクレティアヌス帝の政策を引き継いだコンスタンティヌス帝。キリスト教は予想外に強い勢力になったため、弾圧するのではなく、逆にキリスト教を公認することで、帝国を安定させようと決心します。

 

この命令をミラノ勅令と言います。これによって彼の皇帝としての評判はとても高いです。

 

また、軍隊を増強したり、身分や職業を世襲制にしたり、コロヌスをその土地に縛り付けて税をとったりなど、帝国支配安定のための改革を多数行いました。

 

さらに、彼はビザンティウム(今のイスタンブール)を改称してコンスタンティノープルという名の首都をつくり、統治の中心を東へ移動させます。

 

理由は、ローマは帝政派ではなく、

 

共和派や異教徒の勢力が根強かったこと

 

・地中海貿易が停滞したために、東方世界の方が経済が回っていたこと

 

があげられます。

 

また、コンスタンティヌス帝は官僚体制を築き、ローマを階層社会にしました。

 

さよなら、西ローマ帝国

2人の皇帝の尽力にもかかわらず、軍隊の維持費や官僚への給料のための重税は、属州の反乱を招きます。

 

さらに、ゲルマン人の大移動によって、知らない人がどんどんローマ帝国に流入し、大混乱。解決するために、テオドシウス帝は東西に分割して、自分の2人の子供に分け与えました

 

 

東側のコンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国は、経済が安定して回っていたため、その後1000年以上続いていきますが、西側のローマを首都とする西ローマ帝国は、混乱が収まりませんでした。

 

流入してきたゲルマン人の傭兵隊長、オドアケルによって、西ローマ皇帝は退位。西ローマ帝国は滅亡してしまいます。

 

ローマ帝国の分裂の原因は、重税による反発、そして、ゲルマン人の大移動でした。

ゲルマン人の大移動を分かりやすく!

語呂合わせ

 

最後に、ローマ帝国が東西分裂した年を覚えていきましょう。分裂したのは、395年ですね。

 

産休後、分裂

395(産休後)

分裂

 

産休取った女性が優秀すぎたので、彼女不在のチームが分裂しちゃったっていう語呂合わせです。

 

まとめ

 

いかがでしたか?大帝国ローマがついに分裂してしまいましたね。しっかりその理由までおさえ、次に進みましょう。

 

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次回はキリスト教についてのお話です。それではまた会いましょう!

【世界史】ニケーア公会議の覚え方!ローマ帝国がキリスト教を公認したのはなぜ?!

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