どうも!ケイトです。
今回はイギリスの模範議会とフランスの三部会の違いについて解説していきたいと思います!
Contents
今日のポイント
模範議会(1295)→イギリス、マグナカルタを守らなかった王に対抗して作られた議会を、さらに王がカスタマイズして利用した身分制議会
三部会(1302)→フランス、聖職者、貴族、平民の代表者が出席する議会
では詳しくいきましょう。
イギリスの模範議会
マグナカルタ
プランタジネット朝の初代の王様、ヘンリ2世にはフランス人の血が入っていました。彼は凄腕で、フランスの西半分を領有するほどでした。
ヘンリ2世のあとは、息子のリチャード1世が跡を継ぎます。
彼は、十字軍で戦いに行ったりするなど勇敢な王でした。人気な王でもありましたが、残念ながら、彼が戦死してしまいます。
彼のあとは、リチャード1世の弟のジョンが王位を継ぎます。
ところが、そんなヘンリ2世の息子ジョンはとてつもなく評判が悪い王でした。イギリスでは、ジョンという名前をつけることが少ないそうですよ。
ジョンは、フランスの国王、フィリップ2世と領土争いを始めますが、あっさり敗北し、フランスの領地をことごとく失っていきます。
また、インノケンティウス3世とも、司教の任命を巡って争い、最終的に破門されます。
しかも政治が下手くそで財政難に陥り、貴族を含めた国民に重税を課したために、貴族の反感を買います。
これが、イギリスで議会が築かれるきっかけになっていきます。
好き勝手課税をする王に怒った貴族は力を合わせて、ジョンに立ち向かいました。
「ジョンに好き勝手させないようにしよう!」と。
そこで彼らは「課税のためには聖職者と貴族の会議での承認が必要であること」などを文書にします。
この文書をマグナカルタと言います。このマグナカルタというのは、今で言う憲法のようなものなんです。
憲法というのは、国民が公権力を抑制するための法ですよね。マグナカルタは王権を抑制するという役割を担うのです。
貴族達はマグナカルタをジョン王に認めさせ、王権を制御することにしました。
現在のイギリスの立憲政治は、マグナカルタが基礎になっています。
議会成立
マグナカルタで王権を抑えることに成功したあとは、とんとん拍子かと思いきや、、、
ジョンの次の王、ヘンリ3世(ジョンの息子)が問題を起こします。
ヘンリ3世は、父親のジョンが失った領土を取り戻そうと燃えていました。
しかし、その領土を取り戻すには当然、他の国と戦争をして、奪い返さなければいけません。
そうすると、戦争をするためのお金が必要になっていきますよね。
しかし、王様は、勝手に課税をできません。
困った王様は、ヘンリ3世はマグナカルタをガン無視して、貴族に重税を課してしまいます。
この状態に怒ったシモン=ド=モンフォールという貴族は反乱を起こします。仲間を集めて、課税を拒否し、挙兵したのです。
そして見事に、ヘンリ3世と皇太子のエドワードを捕虜にして、要求を飲ませます。
シモンドモンフォールは、議会を強化しようと考え、貴族と聖職者の会議に、州と都市の代表を加えます。
そしてその議会で課税の話だけでなく、国政の話もするようになりました。
これがイギリス議会の始まりですが、これは模範議会ではなく、モンフォール議会と呼ばれます。
模範議会へ進化
ヘンリ3世の次の王、エドワード1世はこの会議を利用しようと企みます。
議会は王に対するものだったのですが、逆に王が議会を招集したのです。
議会には、貴族、聖職者、州代表の騎士と、都市代表の市民が参加するようになりました。
この市民というのは、貴族や諸侯に対抗する勢力でした。
また、火薬の登場で没落した騎士は、地方のジェントリ(郷紳)になり、州の代表として議会に出席していました。
ジェントリとは、簡単に言えば地主です。
貴族ではないのですが、貴族で言えば男爵の下くらいの地位で、それなりに金持ちでエリートでした。
慈善活動をしたり、無給で仕事を引き受けたりなど、高潔な人々で、ジェントルマンという一種のエリート層を形成しました。
この議会こそが模範議会と呼ばるものです。身分制の議会であり、貴族、諸侯、騎士がいる中での市民は、立場の弱いものになりました。
また、模範議会は、立法機関ではなく、ただの王様諮問に対して、審議するだけの機関で、今の議会とは性質の異なるものになっています。
エドワード1世はこの議会を利用して、度々戦費などを調達しました。
フランスの三部会
フィリップ4世とアナーニ事件
三部会を始めて開いたのは、フィリップ4世でした。
フィリップ4世って誰やと思った人は、復習しておきましょう。
彼は、教皇ボニファティウス8世を拉致監禁しその後憤死させた王様です。(アナーニ事件)
実は、このアナーニ事件をおさえると、三部会の成立もおさえうることができます。
アナーニ事件、教皇のバビロン捕囚の詳しい解説はこちらから↓
教皇の信頼失墜とアナーニ事件
教皇権は十字軍の失敗によって、衰退してしまいますね。
教皇は半端なく信用を失うと同時に、十字軍を指揮し勇敢に戦った王様の力が強くなっていきました。
王様が国を統制できるようになり、さらに教皇は力を失っていきます。
十字軍も終わり、信頼が失われてから13世紀末に教皇になったのが、ボニファティウス8世という人物です。
もうこの頃には王様がリーダーシップを発揮して国をまとめ、聖職者に対しても税金をとるようになりました。
しかし彼は今までの教皇権が忘れられず、
「教皇は絶対だ!聖職者なのになんで税金を払わなきゃいけないんだ!」
と英国、フランスの国王に抗議します。
もう必死ですね。
そして14世紀に入りたてのあるとき、事件が起こります。
教皇 拉致られる
ボニファティウス8世がアナーニに滞在中、なんと襲撃を受け、捕まってフランスに連行されてしまうのです。
拉致ですね。
しかしこの拉致は、フランスの国王であるフィリップ4世の命令によるものでした。
拉致された教皇は3日間監禁されました。釈放された後、教皇はローマに戻ってこれましたが、屈辱を受けた彼は、その年に急逝しました。
実際は高齢と不摂生が死因だそうですが、屈辱のもとでの彼の死を人々は「憤死」と表現しています。
三部会「うざいじじいをやっつけていい?」
ここから三部会の話をしましょう。拉致計画を命令したのはフランスの国王、フィリップ4世でした。
彼は、未だに教皇の特権を手放せないボニファティウスに
「あのじじい、クソうぜえ!」
と腹を立てていました。どうにかして黙らせたい、やっつけたい、と思っていました。
しかし、一人の力ではどうにもできません。そこで、何か行動を起こすことについて、国民の意見を聞いてみようと思い立ったのです。
この結果できた議会が、三部会でした。
彼は、聖職者、貴族、平民の3つの身分の人々からそれぞれ代表者を選び、彼らを集めて集会を開きました。
うざい教皇をやっつけていいか聞くための会議だったわけです。
フィリップ4世はこの三部会で賛同を受け、アナーニ事件へ駒を進めていくことになったわけです。三部会は、フランス革命初期頃まで続きました。
まとめ
いかがでしたか?イギリス、フランスの議会について解説しました。時期も同じなので、しっかり理解していれば覚えやすいですね。
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