【フランク王国攻略】メロヴィング朝とカロリング朝の違いを解説!

みなさんこんにちは。ケイトです。

 

前回はゲルマン人の大移動についてのお話でしたね。

ゲルマン人の大移動を分かりやすく!歴史的意義も!

今回は現在のフランスに建国され、とても安定した国となったフランク王国についてのお話です。

 

メロヴィング朝とカロリング朝と違いと、それぞれの成立そして分裂まで一気に解説していきます。

 

Contents

メロヴィング朝とカロリング朝の違い

ゲルマン人の部族のひとつ、フランク人が建てた国です。王に即位したのはメロヴィング家のクローヴィス。彼の王朝をメロヴィング朝と言います。

 

カールマルテルの子供、ピピンがひらいたのが、カロリング朝宮宰という臣下がメロヴィング朝の王位を奪っている形というのがポイントです

 

メロヴィング朝

カトリックに改宗した王

少し復習するとフランク王国は、ゲルマン人の部族のひとつフランク人が建てた国です。王に即位したのはメロヴィング家のクローヴィス

 

彼の王朝をメロヴィング朝と言います。

 

それから、彼は周囲の民族を従え、フランク王国は東ゴート王国に並ぶ強国となります。

 

 

でも、ゲルマン人が大移動してくる前には、ローマ人がいたはずですよね。

 

 

なぜ多数のローマ人達の信用を集め、フランク王国を大きくすることができたのでしょうか?実はここには宗教が絡んでいます。

 

ここでも復習ですが、ローマ人はキリスト教の何派を信仰していましたか?

 

そうですね。アタナシウス派、つまりカトリックです。

 

一方でゲルマン人は、アリウス派でした。ニケーア公会議で異端となった方です。暴君ならば、強制的にアリウス派に改宗させるところですが、クローヴィスはそれをしませんでした。

 

逆にクローヴィスがカトリックに改宗したのです。

 

こうすることで、ローマ人の貴族達も支配層に取り込むことができ、さらにローマ人達の不満もたまりにくいため、フランク王国は強国となることができました。

 

 

ちなみに、ローマ人とゲルマン人のイメージとしては、ローマ人はラテン系、(テルマエロマエを見たらわかりやすいかと)、ゲルマン人は白人です。言葉だけよりもイメージした方が覚えるのも早くなりますよ。

 

 

トゥールポワティエ間の戦い

フランク王国はブルグンド王国などを倒し、全ガリアを統一します

 

 

これはどのくらい広いかというと、フランス・ベルギー・スイス、オランダとドイツの一部、という結構な広さ。

 

しかし、メロヴィング家の王家は、子供に人数分の領地を分け与えるという相続方法をとっていました。

 

 

王になるのは1人なので、王1人の領地はだんだん小さくなりますよね。

 

 

こうしてメロヴィング朝の権力は次第に衰えていきます。

 

 

じゃあ、誰が権力を握ったかというと、宮宰(マヨルドムス)という、行政と財政の長官でした。

 

 

ここで覚えておいてほしい宮宰が1人います。カール=マルテル、という人物です。この頃、イスラームの勢いが凄まじくなっていました。アラビア半島から地中海世界に侵入してきたのです。

 

イスラーム勢力は北アフリカを西へ進み、北上してイベリア半島にわたり、西ゴート王国を滅ぼし、フランク王国へと迫ってきます。

 

 

そこでフランク王国がイスラーム勢力に立ち向かった戦いを、トゥールポワティエ間の戦いといいます。

 

カールマルテルはイスラーム軍を見事撃退しました。

カロリング朝

 

ピピン

 

カールマルテルの子供、ピピン。彼はカロリング朝という新しい王朝を開きます。しかし、宮宰という臣下がメロヴィング朝の王位を奪っている形なので、大丈夫なの?と思いますよね。

 

ここにはローマ教会が絡んでいます。西ローマ帝国が滅んだあと、ローマ教会はめちゃくちゃ不安定な状態になります。国家という保護者がいないからです。

 

 

そこで教皇はイスラームを撃退し、キリスト教世界を守ったフランク王国に目を付けます。

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しかし弱体化しているメロヴィング朝では心許ないので、フランク王国の強大化のために、ピピンの王位奪取を支援するのです。

 

 

不安定な状態とはいえ、キリスト教のトップから許可を得ていることはとても大きいことでした。

 

ピピンはフランク王位を継承することを認めてもらったお礼に、ランゴバルド王国から奪ったラヴェンナ地方を教皇にプレゼント(寄進)しました。

 

 

この寄進された土地は、教皇領の始まりになっています。ローマ教会とフランク王国のギブアンドテイクの成立がなければ、歴史は変わっていたでしょう。

 

カール大帝

ピピンの子供、カール大帝の時代になると、フランク王国は強大国となります。

 

カール大帝は、

ランゴバルド王国を倒したり、

アジア系のアヴァール人を倒したり、

北東にいるザクセン人を服従させたり、

イスラーム勢力を撃退したりなど数々の勝利を収めます。

 

こうして、ドイツ、フランス、北イタリアという、西ヨーロッパのほとんどをフランク王国ご統一することになりました。

 

大陸にいたゲルマン人達はフランク王国に統合され、みんなローマ=カトリックに改宗しました。

 

広大な土地になればなるほど支配は難しくなりますよね。そこでカールは全国を州に分けます。

 

そして、地方にいる豪族を州の長官(伯)に任命するのです。さらにこの伯を監視するため、巡察使を派遣しました。このようにして強大国になったのです。

 

カールの戴冠

カールの活躍を見て、ローマ教会は「すげえ。彼ならビザンツ皇帝と戦えるかも。」と思い、彼と関係を深めていきます。

 

そして、800年というキリの良い年のクリスマス。ローマ教皇、レオ3世はカールに300年も前に滅びた西ローマ帝国の帝冠を授けました。

 

いきなり冠を被せられたカールは流石に困惑したそうです。

 

こうして、ローマ教会は「西ローマ帝国」の復活を宣言しました。

フランク王国の分裂

カリスマ性のある人の後の代は必ずと言って良いほど、もめます。カールの孫の代になると、孫達が領土争いを始めるのです。

 

結局、広大なフランク王国は、ヴェルダン条約とメルセン条約を経て、東フランク、西フランク、イタリアの3つに分裂します。

 

東フランクは今のドイツ、西フランクは今のフランスに発展していきます。

東フランク

 

早々とカロリング家の跡継ぎがいなくなると、諸侯の選挙で王が選ばれるようになります。諸侯というのは一定の土地を持っている貴族のことです。

 

ザクセン家のオットー1世が王になると、彼はマジャール人やスラヴ人を撃退したり、北イタリアを制圧したりと、快進撃を見せます。

 

ローマ教会はまたしても「こいつはすげえ。」となり、オットー1世にローマ帝国の帝冠を授けるのです。

 

のちに東フランク王国は神聖ローマ帝国と呼ばれます。

 

しかし神聖ローマ皇帝はローマ帝国の後継者であることや、キリスト教世界の保護者だということを口実に、イタリアを支配しようとしますが、国内の統一をおろそかにしていたため、国内は不安定でした。

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西フランク

こちらもカロリング家の跡継ぎがいなくなります。そして、パリを治めていた伯のユーグ=カペーが王となり、カペー朝をひらくのです。

 

しかし王の支配領域はパリ周辺だけで、諸侯達の方が広い領土を持っていたりなどしていたため、国内は不安定でした。

 

イタリア

こちらでもカロリング家の跡継ぎがいなくなります。

 

その後、北から神聖ローマ帝国、南からイスラーム、と侵入を受けまくり国内は混乱します。こうして、イタリアは中央集権型ではなく、地方分権型になっていきます。

 

 

例えば、ローマを中心とした教皇領、ジェノヴァ、ヴィネツィア、ピサなど。都市がそれぞれ発展していくのです。

 

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まとめ

いかがでしたか?

フランク王国のメロヴィング帳からカロリング朝の成立、そしてフランク王国の分裂までのお話でした。

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それではまた会いましょう!

ゲルマン人の大移動を分かりやすく!歴史的意義とは?

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